なぜ酒を飲みすぎると記憶をなくすのか——「ブラックアウト」の正体
楽しく飲んだはずの夜の記憶が、翌朝ぽっかり抜け落ちている——通称「ブラックアウト」。意識はあったのになぜ記憶だけが残らないのか。記憶を保存する海馬のはたらき、NMDA受容体という「学習のスイッチ」、そして量より「飲む速さ」が引き金になる仕組みを、科学の視点から読み解く。
楽しく飲んでいたはずなのに、翌朝「どうやって家に帰ったのか」がまるで思い出せない。ウイスキーの杯を重ねた夜に多くの人が経験するこの「記憶が飛ぶ」現象は、俗に「ブラックアウト」と呼ばれる。なぜ、意識はあって歩いたり喋ったりできていたのに、その時間だけがぽっかりと抜け落ちてしまうのか。
記憶を「保存」する装置が止まる
ブラックアウトは、酔って気を失う「寝落ち(パスアウト)」とはまったく別のものだ。飲みすぎて眠り込むのが意識そのものの喪失なら、ブラックアウトは意識があるまま起きる。周囲から見れば普通に会話し、笑い、店を出て行く。ところが本人の脳の中では、その出来事が「記録されていない」のである。なお、記憶が部分的に抜ける「断片的」なものと、一定の時間帯がまるごと欠落する「全健忘」タイプがあり、後者ほど深刻だ。
鍵を握るのは、脳の奥にある海馬という器官だ。海馬は新しい体験を短期の記憶から長期の記憶へと書き込む、いわば保存ボタンのような役割を担っている。米国立アルコール乱用・依存症研究所(NIAAA)のアーロン・ホワイト博士は、ブラックアウトを「アルコールが海馬の情報処理を阻害し、新しい記憶の形成を止めてしまった状態」と説明する。つまり、その間の出来事を体験していないのではなく、体験したのに保存されなかった、というのが正確だ。
神経のスイッチが抑え込まれる
もう少し細かく見ると、アルコールは海馬の神経細胞にあるNMDA受容体という「学習のスイッチ」の働きを妨げる。この受容体は、記憶が定着するときに起きる長期増強(LTP)という現象の引き金を引く部品だ。アルコールはこのスイッチを抑え込み、さらに神経の興奮を鎮める方向にも作用するため、目の前の情報が長期記憶へと焼き付けられなくなる。ビデオカメラで言えば、レンズは景色を映しているのに、録画ボタンが押されていない状態に近い。
「量」より「速さ」が引き金になる
興味深いのは、ブラックアウトが起きるかどうかを左右するのが、飲んだ総量そのものよりも「血中アルコール濃度が上がる速さ」だという点だ。NIAAAによれば、ブラックアウトは目安として血中アルコール濃度0.16%前後(多くの国の運転基準の約2倍)から起こり始めるとされる。ただしこの数値は体重や空腹かどうか、飲むペースで大きく変わる。空きっ腹で一気に飲む、度数の高いウイスキーをストレートで立て続けにあおる——こうした飲み方は濃度を急激に押し上げ、記憶回路の不意を突く。同じ量でも、食事とともにゆっくり飲めばこの急上昇は避けやすい。
なお、「思い出せないだけで脳は無傷」というわけではない。ブラックアウトを繰り返すほど脳へのダメージが懸念されることも指摘されており、記憶が飛ぶほどの深酒は、体からの明確な警告と受け止めたほうがいい。
まとめ
ブラックアウトは意志の弱さでも「酒に強いか弱いか」の問題でもなく、海馬という記憶装置が一時的に保存を止めた、れっきとした生理現象だ。酒に強い人でも、濃度を一気に上げれば記憶は飛ぶ。楽しい時間ごと記憶を失わないために、大切なのは「どれだけ」よりも「どう飲むか」。チェイサーを挟み、何かを口に入れながら、濃度を急に上げない。ウイスキーの豊かな夜を翌朝もちゃんと覚えているための、いちばん確かなコツである。
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