スコットランドの杯「クエイヒ」は、なぜ取っ手が二つあるのか——「武器を握れない」説の裏づけと、小さな樽のように組まれた木の器
スコットランドの酒杯クエイヒ。「両手で受け取るから武器を握れない」という有名な説明には、古い記録の裏づけが見当たらない。ゲール語の名前、樽のように板を組んだ木の器という実像、取っ手が二つあることの実際的な意味を考える。
スコットランドのウイスキーの席には、グラスではない器が出てくることがある。浅い椀の左右に、耳のような平たい取っ手がひとつずつ。「クエイヒ(quaich)」と呼ばれる杯だ。
結婚式で新郎新婦が分け合い、客を迎えるときにも送るときにも差し出される。そして、この器には決まって一つの話がついてくる。「両手で受け取るから、武器を握れない。だから信頼の証なのだ」と。
よくできた話だ。ただ、調べてみると、この説明を裏づける古い記録は見当たらない。この記事では、クエイヒの取っ手にまつわる語りと、木の器としての実像を分けて見ていきたい。
クエイヒとはどんな器か
名前はスコットランド・ゲール語の cuach(杯、椀)から来ている。古い綴りには quaigh や quoich もある。
形は浅い椀に、短く突き出た取っ手。スコットランドではこの取っ手を「ラグ(lug)」、つまり「耳」と呼ぶ。数はふつう二つで、三つや四つのものは少ない。
大きさは、手のひらに収まるくらいのものが多い。木工家で古い木器を研究しているロビン・ウッドは、典型的なクエイヒを直径3〜4インチ(およそ7.5〜10センチ)としている。量でいえば、ストレートの一杯、いわゆる「ドラム」を注ぐのにちょうどいい器だ。
「武器を握れない」説は、どこまで本当か
この説明は、いまも広く語られている。アラン蒸溜所の公式サイトも、受け取る人が両方の取っ手を持つため武器に手を伸ばせない、だから信頼の印になる、と紹介している。
けれども、この話がいつ、誰によって言われ始めたのかを示す一次資料は、今回の調べでは見つからなかった。ロビン・ウッドは、ネット上のクエイヒの歴史の多くが「同じ根拠のない、ロマンチックな話」を繰り返していると書いている。その下敷きになっているとされるのが1911年版の『ブリタニカ百科事典』の記述で、彼はそれも裏づけのない注記を含むと批判する。
似た事情の話はほかにもある。
- ガラス底のクエイヒ: 底にガラスをはめ、飲みながら相手を見張ったという話。ボニー・プリンス・チャーリーが持ち歩いたという伝承もあるが、いずれも「〜と言われる」の域を出ない。
- 王から王妃への贈り物: スコットランド王ジェームズ6世が、デンマークから迎えた王妃アンに結婚の記念としてクエイヒを贈り、これがクエイヒを贈る習わしの始まりになった、という話。アランのサイトも「と推測されている」と書くにとどめている。
どれも否定する証拠があるわけではない。ただ、確かめられた事実として語るには材料が足りない。宴席で話すなら「そう語り継がれている」と添えるのが、いちばん正直だろう。
実像に近いのは「小さな樽」のような木の器
では、確かめられることは何か。
まず、初期のクエイヒは木で作られていた。作り方は大きく二つある。一本の木から削り出すか、細長い板(樽板=ステーブ)を寄せ合わせて、樽のように組むかだ。
板を組むほうの器は、柳の枝や銀の帯で締められた。明るい色と暗い色の板を交互に並べたものもある。ハイランドで使われた同じ板組みの器では、板の継ぎ目を「フェザリング」と呼ばれる方法で合わせ、水が漏れないようにしていた。ウイスキーを寝かせる樽と同じく、職人が板を一枚ずつ合わせて組む器だったわけだ。
17世紀になると、銀細工師たちが木のクエイヒに銀をあしらい、やがて銀だけで作ったものも現れる。面白いのは、木の器の板の継ぎ目や締め帯まで、銀で写し取ったものがあることだ。器の姿が、木の時代の記憶をそのまま引き継いでいる。
起源については説が分かれる。中世の木の酒器「メイザー」から直接発展したという説(ただし形も素材も違うため、疑問視する見方もある)、イングランドやオランダの、平たい取っ手が二つついた浅い銀の椀(瀉血に使われたとされる)から来たという説。板を組んで作る点から、バルト海沿岸の樽造りの器との関係を考える人もいる。決め手はまだない。
時期としては、まずハイランド地方で使われ、エディンバラやグラスゴーといった大きな町で流行したのは17世紀の終わりごろとされる。
結局、取っ手はなぜ二つなのか
ここからは筆者の見方になる。
取っ手が二つある理由としてまず考えられるのは、「渡しやすい」ことだろう。一つの杯を回し飲みするなら、片方の耳を自分が持ち、もう片方を相手に向けて差し出せる。受け取る人も、自分の側にある耳をつかめばいい。人から人へ杯が渡っていく席には、向かい合った二つの取っ手がよく似合う。
ハイランド地方の暮らしの道具を集めたハイランド民俗博物館は、四つの耳をもつ大きめのクエイヒが、婚礼のような祝いの席で、皆に回すために使われたと言われる、と紹介している。耳の数が、杯を渡す相手の多さと結びついて語られているのは興味深い。
「武器を握れない」という説明は、この「分け合う器」という性格に、あとから物語が重ねられたものなのかもしれない。だとしても、その物語がこれほど広まったのは、クエイヒが実際に「信頼して一つの杯を分け合う」場で使われ続けてきたからだろう。
いまも生きる「クエイヒ」の名
クエイヒはいまも、結婚式の乾杯や、優勝杯、記念品として使われている。2014年のグラスゴー・コモンウェルスゲームズでは、メダリストに木製のクエイヒが贈られた。
ウイスキー業界には、その名を冠した団体もある。1988年に設立された「キーパーズ・オブ・ザ・クエイヒ」だ。スコッチ業界に大きく貢献した人を称える国際的な名誉団体で、公式サイトによれば、パースシャーのブレア城で年2回、入会の式典と晩餐会を開いている。登録されたキーパーは3,000人を超え、その国籍は100か国以上にわたる。
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