なぜベンリアックは、スペイサイドなのにピートを焚くのか——65年眠った蒸溜所と、ブレンドの裏方だった「煙」
華やかなスペイサイドで、毎年「煙の季節」を設けるベンリアック。ピート蒸溜はいつ、なぜ始まったのか。公式年表と資料の食い違いを整理し、本土の泥炭が生む甘い煙と、オリジナル・テン/スモーキー・テンの飲み比べ方まで案内する。
スペイサイドと聞けば、華やかで果実味のある、煙とは縁の薄いモルトを思い浮かべる人が多いはずだ。そのスペイサイドの北のはずれで、毎年きまって「煙の季節」を設け、ピートで燻した麦芽を仕込んでいる蒸溜所がある。ベンリアックだ。
なぜスペイサイドの蒸溜所が、わざわざピートを焚くのか。この記事では、ベンリアックの年表をたどりながら、その理由として語られてきた説を整理し、いまの棚でどう飲み分けるかまでを見ていく。
蒸溜所が眠っても、製麦場だけは動き続けた
ベンリアックは1898年、実業家ジョン・ダフがエルギン近郊に建てた。ところが、ほどなくスコッチ業界を襲ったパティソン恐慌のあおりを受け、公式の年表によれば1900年、わずか2年ほどで蒸溜は止まってしまう。
ここからが少し変わっている。蒸溜は止まっても、併設の製麦場(フロアモルティング)は動き続け、同じダフが建てた隣のロングモーンに麦芽を送り続けた。スチルに再び火が入ったのは1965年。眠っていたのは実に65年に及ぶ。

「19世紀の流儀で」——ピート蒸溜の始まり
公式の年表は、1972年に「ハイランド産のピートで燻した麦芽を使い、19世紀の流儀で一部の原酒を造り始めた」と記している。
「19世紀の流儀」とは、つまり昔のやり方への回帰を指す。コークスや重油で麦芽を乾かすのが当たり前になる前は、スコットランド本土でもピートを燃やして麦芽を乾かすのが普通だった。煙たいスペイサイドは、新しい発明というより、昔の姿に近いとも言える。
ただし、始まりの年や動機は資料によって食い違う。ベンリアックは1978年、親会社ごと北米の酒類大手シーグラムの傘下に入った(この年も資料によってぶれがある)。スコッチウイスキー専門の百科事典 Scotchwhisky.com は、シーグラム傘下に入って数年後の1983年に、ピートを焚いた仕込みがブレンド用のスモーキーな原酒として始まった、と説明している。別の解説サイトは、シーグラムがアイラ島に蒸溜所を持っていなかったため、自前でスモーキーな原酒を確保しようとした、と書く。
公式は昔の流儀への回帰を、二次資料はブレンド用の需要を挙げており、動機の説明も分かれる。開始年も1972年とする資料と1983年とする資料があり、1972年ならシーグラムの買収より前になる。何年に、誰の判断で始まったのかまでは断定できない。ここは諸説ある、と受け取っておくのが誠実だろう。
ブレンドの裏方から、看板の一本へ
当初の煙は、主にブレンドの材料だったとみられる。表に出たのは、持ち主が替わってからだ。
2001年にシーグラムの酒類事業が分割・売却されると、ベンリアックはシーバス・ブラザーズの手に渡り、翌2002年にまた操業を止める。2004年、ビリー・ウォーカーが率いる独立系の投資家グループがこれを買い取った(ウォーカーが後に手がけた蒸溜所の話はに詳しい)。
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