なぜアードベッグは「一度死んだ蒸溜所」から世界的カルトへ甦ったのか——700万ポンドの賭けと、16万人の共犯者たち
アイラ島のカルト銘柄アードベッグは、1981年に一度生産を止めた「死にかけた蒸溜所」だった。700万ポンドで買収された名門が、世界16万人のファンを持つ伝説になるまでの復活劇を追う。
発売日が近づくと、世界中の愛好家がそわそわし始める。毎年恒例の限定ボトルは即日完売、オークションでは定価の数倍。アイラモルトの「カルト」と呼ばれるアードベッグの現在地だ。
だが、時計の針を40年ほど戻すと、まったく別の光景が広がっている。蒸溜所の門は閉ざされ、スチルは冷え、島の男たちは職を失った。アードベッグは一度、ほとんど「死んだ」蒸溜所なのだ。
この記事では、名門がどうやって沈み、なぜ甦ることができたのかを追いかける。
「ウイスキーの湖」に沈んだ名門
アードベッグの正式な創業は1815年。ジョン・マクドゥーガルが政府の免許を得て蒸留を始めた(それ以前から、この入り江で酒が造られていた記録は残っている)。19世紀後半には年産25万〜30万ガロン——およそ110万〜140万リットル——を数える、当時のアイラ島でも最大級の蒸溜所に成長していた。
転落は1980年代に訪れる。世界的なウイスキー消費の落ち込みで、スコットランド中の倉庫に売れない原酒が溢れた。いわゆる「ウイスキー・ロッホ(ウイスキーの湖)」の時代だ。生産調整の波はアイラ島の名門も容赦なく飲み込み、アードベッグは1981年3月に生産を停止。1989年からブレンド用に細々と再開されたものの、1996年には再び完全に停止し、蒸溜所ごと売りに出された。
閉鎖された蒸溜所の多くは、二度と戻らない。ポートエレンや軽井沢のように、失われて「幻」と語られる存在になっていてもおかしくなかった(この話は「閉鎖蒸留所」はなぜ高いのかで詳しく書いた)。
700万ポンドの賭け
1997年、手を挙げたのはハイランドの名門グレンモーレンジィ社だった。買収額は700万ポンド。同年6月25日には早くも蒸留を再開し、翌1998年からフル生産に戻す。
そして2000年、復活の象徴となる一本が世に出る。現在も看板であり続ける「アードベッグ10年」だ。

同じ2000年には、もうひとつの重要な仕掛けが動き出す。ファンクラブ「アードベッグ委員会(ザ・コミッティー)」の設立だ(これについては後述する)。2004年末にはグレンモーレンジィ社ごとフランスのLVMH(モエ・ヘネシー・ルイ・ヴィトン)グループの傘下に入り、資本の面でも復活は盤石になった。
「スモーキーなのにフルーティ」という説得力
このコラムの関連
関連するボトル


次に読む

週70時間のバーボン工場と、12人のエンジニア——ウイスキーの現場で争われている「時間」
スコッチとバーボンの現場では、この10年ストライキがくり返されてきた。争われているのは賃上げだけではない。残業、シフト、そして「休暇1日=7時間12分」という計算式だ。

なぜスコッチの蒸溜所は、1回の蒸溜を3分で終えたのか——酒ではなく「スチルの容量」に税をかけた法律
18世紀の末から19世紀の初め、ローランドには1回の蒸溜を3分で終えた蒸溜所があった。税額が造った酒の量ではなく「スチルの容量」で決まったため、造り手は浅く広い皿のようなスチルを回し続けた。制度が酒の形を変えた記録。




