なぜ蒸溜所のまわりの建物は「黒く」なるのか——「天使の分け前」を横取りする菌の物語
熟成中のウイスキーから蒸発する「天使の分け前」。その行方を追うと、蒸溜所や貯蔵庫のまわりを黒く染める一種の菌に行き着く。コニャックの薬剤師が見つけ、いまも各地で訴訟を生む「ウイスキー・ファンガス」の物語。
ウイスキーの蒸溜所や熟成庫を訪ねると、妙なことに気づく。建物の壁も、屋根も、そばの木々や道路標識までもが、うっすらと煤をかぶったように黒ずんでいるのだ。掃除を怠っているわけではない。この黒は、ウイスキーづくりと切っても切れない、ある小さな生き物の仕業だ。
天使の分け前は、どこへ行くのか
樽の中で眠るウイスキーは、熟成の間に少しずつ目減りしていく。木の樽を通してアルコールと水分が蒸発するためで、その量は環境にもよるが、年におよそ2〜5%とされる。この失われた分を、ウイスキーの世界では詩的に「天使の分け前(エンジェルズシェア)」と呼ぶ。
では、天に昇ったはずのその分け前は、本当に消えてしまうのか。答えは「いいえ」だ。蒸発したエタノールは貯蔵庫の外の空気に漂い、それを好む生き物を呼び寄せる。壁を黒く染めていた犯人は、天使が取りこぼした一滴を、地上でちゃっかり横取りしていたのである。
コニャックの薬剤師が見つけた黒い菌
その正体は、ボードイニア・コンプニアケンシス(Baudoinia compniacensis)という菌類だ。通称「ウイスキー・ファンガス(whisky fungus)」。ビロード状の黒い被膜をつくり、厚いところでは1〜2センチにも達する。空気中に漂うエタノールに刺激されて成長し、熱にも比較的強い。ごくわずかなエタノールにも反応して広がるため、貯蔵庫から2キロ以上離れた家や車、庭の物干しまで黒く覆ってしまうこともある。
この菌に最初に目を留めたのは、ウイスキーではなくブランデーの本場だった。1870年代、フランス・コニャックの薬剤師アントナン・ボードワンが、熟成庫の周りの建物を覆う黒い付着物について報告する。菌そのものは1881年に別の名前で記載され、2007年に新しい属として整理された際、その発見者にちなんで「ボードイニア」と名づけられた。種小名の compniacensis も、コニャックのラテン名に由来する。名前からして、この菌は蒸溜酒の熟成とともに生きてきたのだ。
いまも各地で争いを生む
黒い菌は、名所の風情では済まされなくなってきている。近年はむしろ、蒸溜所と近隣住民のあいだに争いの火種を落としている。
アメリカ・テネシー州では、ジャックダニエルの樽貯蔵庫(バレルハウス)の増設をめぐり、近くでイベント会場を営む女性が「エタノールの排出でウイスキー・ファンガスが繁殖し、資産が損なわれた」と訴えた。2023年には、裁判所が係争中の建物の建設許可を取り消すよう命じている。バーボンの本場ケンタッキー州でも、貯蔵庫の拡張計画に住民が反発する動きが各地で起きている。「天使の分け前」は、地上ではこうして人間どうしのもめ事まで生んでいるのだ。

なお、この黒ずみは、深刻な健康被害で知られる有害な「黒カビ」とは別物とされる。とはいえ景観や資産価値への影響は現実で、蒸溜所側にはエタノールの排出を抑える工夫が求められている。
黒い壁は、ウイスキーが生きている証
見方を変えれば、あの黒ずみは、その土地で確かに酒が育っている証拠でもある。壁が黒いほど、近くでは長く、たくさんの樽が静かに呼吸している——そう思うと、少し見え方が変わってくる。次に蒸溜所の写真で黒くくすんだ壁を見かけたら、思い出してほしい。あれは天使の分け前の、地上に残されたもうひとつの姿なのだ。
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