サンプルは2014年9月に地球へ帰還し、翌2015年9月に結果が公表された。分析はガスクロマトグラフィー(揮発性成分)と高速液体クロマトグラフィー(熟成由来成分)で行われ、蒸溜・ウイスキー創造ディレクターのビル・ラムズデン博士らが官能評価を担当している。
発表されたテイスティングノートは、並べて読むと面白い。
地上のサンプルは、熟成したアードベッグらしい木の香り。シダー、甘い煙、熟成したバルサミコ酢に、レーズン、糖蜜のトフィー、バニラ、焦がしたオレンジ。味わいもウッディでバルサミコ的、遠くに果実があり、炭と薬品のニュアンス。余韻は穏やかな煙とタール、クリーミーなファッジ。
宇宙のサンプルは、様子が違う。消毒薬めいた煙、ゴム、燻製魚。そこにスミレやカシスのような香水めいた気配が混じり、力強い木のトーンを経て、肉を思わせる香りへ向かう。味わいはプルーンやレーズン、砂糖漬けのプラムやチェリーといった「燻された果実」、土っぽいピート香に、ペパーミント、アニス、シナモン、そしてスモークベーコン。余韻は長く、木と、消毒薬のトローチと、ゴムのような煙。
ラムズデン博士は、宇宙のサンプルではアードベッグのスモーキーでフェノール的な性格がはるかに強く出ており、地球では出会ったことのない別の煙の風味群が現れた、という趣旨を述べている。
ただし、ここで急いで付け足しておきたいことがある。これは蒸溜所とパートナー企業による発表であって、査読を受けた論文として検証されたものではない。サンプルの本数も公表されておらず、統計的に反復された実験でもない。そして何より、「宇宙で熟成させると美味しくなる」という話ではまったくない。読み取れるのは「違った」という一点である。
補助線になるのは「対流」だ。
地上の液体では、温まった部分が軽くなって上へ、冷えた部分が重くなって下へ動く。浮力による、いわゆる熱対流である。無重力——正確には微小重力——の環境では浮力がほとんど生じないため、この熱対流は事実上止まる。
もっとも、液体がまったく動かなくなるわけではない。表面張力の差が生む流れや、分子そのものの拡散は残るし、ISSには機器や乗員に由来する微振動もある。それでも、地上とはまるで違う「静けさ」がそこにあるのは確かだ。
熟成中の樽の中身は、季節の寒暖にあわせて膨張と収縮を繰り返し、動きながら木の成分を溶かし出している。もし液体がほとんど動かないなら、木の成分の溶け出し方も、分子どうしの並び方も、地上とは違ってくるのではないか。
樽のサイズを変えると味が変わるのは、液体と木の接触面積の話だ(→なぜ樽の大きさでウイスキーの味が変わるのか)。熟成庫の種類で変わるのは、温度と湿度の話である(→なぜ同じ蒸留所でも熟成庫の違いで味が変わるのか)。どちらも結局は「液体と木が、どう出会うか」を変えている。重力の効き方を変えるというのは、その出会い方そのものを根こそぎ変えてしまう、いささか乱暴な実験なのだ。
なお、アードベッグ側が公表した狙いは、対流そのものではなく、香りを担う化合物群「テルペン」が微小重力下でどうふるまうかを見ることだった。一方、次に触れるサントリーは対流をはっきりと名指ししている。角度は違うが、どちらも根っこにあるのは「液体が動くこと」である。
同じ問いに、日本からも挑んだ会社がある。サントリーだ。
2015年8月、宇宙ステーション補給機「こうのとり」5号機で運ばれたサンプルは、24日にISSへ届き、日本実験棟「きぼう」に収められた。中身は、アルコール分40%の水溶液が1点と、熟成期間の異なる蒸溜酒が5点の計6サンプル。報道によれば、10年・18年・21年ものが含まれる。第1グループは約1年、第2グループは2年以上を軌道上で過ごす計画だった。JAXAが協力し、東北大学が研究に加わり、帰還後は大型放射光施設SPring-8での分子構造の分析と、ブレンダーによる官能評価が予定されていた。
アルコール分40%の水溶液が1点含まれているのが目を引く。木も熟成も介さない、水とエタノールだけの最小構成でも同じことが起きるのか——次に述べる仮説の筋からすれば、ここがいちばん素朴な検証系になる。ただしサントリーは、このサンプルの役割までは明示していない。
仮説の立て方が、この実験のいちばん面白いところだ。サントリーは、酒の中で水分子とエタノール分子が会合することが「まろやかさ」に関わっていると考え、液体の対流を抑制した環境では、お酒の分子構造の高次化が促進し、まろやかさが形成される可能性があるという筋道を立てた。
長い熟成が角を取るのは、ただ時間が経つからではなく、静かに置かれているからではないか——という見立てである。
水とエタノールの関係が香りや口当たりを左右するという発想自体は、突飛なものではない。ウイスキーに水を一滴落とすと香りが開くのも、同じ土俵の話である(→なぜウイスキーは水を一滴垂らすと香りが開くのか)。
なお、実験に使われた具体的な銘柄は公表されていない。そして正直に書いておくと、この実験の結論を伝える発表を、筆者は確認できていない。仮説が裏づけられたのか、それとも否定されたのか——少なくとも大々的には語られないまま、11年が過ぎた。
ウイスキーだけの話でもない。
フランスのスペース・カーゴ・アンリミテッド社は、2019年11月、ボルドーの名門ペトリュスの2000年ヴィンテージ12本をISSへ送った。滞在は438日19時間。2021年1月14日にスペースXのドラゴン補給船で地球へ戻り、3月1日、ボルドーのブドウ・ワイン科学研究所(ISVV)で、地上に残した同じワインとの比較テイスティングが行われた。
試飲を主導した研究者の総括は「どちらも偉大なワインだった」というもので、香り・味・色に差はあったものの、差の感じ方はテイスターによって異なったとされる。参加者からは「色がより煉瓦色に寄る」「タンニンがよりシルキー」といった所見も出たが、本数が少なくボトル差を排除できないという指摘もあり、主催した企業自身が「科学的な結論を出すのは時期尚早」と述べている。
ペトリュスの場合、到達点は「劣化しなかった」「違いがあったようだ」であって、「宇宙のほうが優れていた」ではない。
市販はされない。アードベッグが送ったのは1本あたり6mlの研究用サンプルで、商品として瓶詰めされた事実はないし、そもそも量がない。サントリーのサンプルも、ブレンダーが試飲して分析するためのものだ。
そして、サントリーの実験には面白いねじれがある。ウイスキーは瓶に詰めた時点で、樽による熟成はほぼ止まると考えられている(→なぜウイスキーは瓶に詰めた瞬間に熟成が止まるのか)。それなのにサントリーが送ったのは、すでに熟成を終え、木から引き離された液体だった。木との出会いが終わったあとの液体の中にも、まだ動いているものがあるのではないか——仮説はそこを見ている。(なお、ワインは瓶の中でも変化が続くとされるので、ペトリュスの場合は事情が別である。)
いま棚に並んでいるボトルは、すべて地上で、樽の中で、時間をかけて造られたものだ。宇宙実験が教えてくれるのは、その地上の熟成が——温度、湿度、木、そしておそらくは重力までも含めた——ずいぶん込み入った条件の上に成り立っている、ということのほうである。
その込み入った条件の産物を、素直に一杯味わってみるのが、たぶんいちばん確かな理解の仕方だ。