なぜジョージ・オーウェルが『1984』を書いた島には、ウイスキー蒸溜所が一軒だけあるのか——渦潮に飲まれかけた作家と、人を呼び戻すために建て直された蒸溜所
『1984』が書かれたスコットランドのジュラ島。人口200人台に鹿5,000頭というこの島の蒸溜所は、一度火が消え、島に人を残すために建て直された。オーウェルを飲み込みかけた渦潮の話とあわせて辿る。
スコットランド西岸、アイラ島のすぐ隣に、南北に細長い島が横たわっている。ジュラ島——人よりも鹿のほうがはるかに多い島であり、ジョージ・オーウェルが『1984』を書き上げた島でもある。
そしてこの島には、ウイスキー蒸溜所が一軒だけある。ジュラ蒸溜所だ。
なぜ、こんな辺境の島に蒸溜所が建ち、しかも一度消えた火がわざわざ灯し直されたのか。そこには「人が減り続ける島をどうにかしたい」という、味の話ではない事情があった。この記事では、島の成り立ちとオーウェルを飲み込みかけた渦潮の話、そして蒸溜所が建て直された経緯まで辿ってみたい。
人が200人台、鹿が5,000頭の島
ジュラ島は南北におよそ45km。面積のわりに人はきわめて少なく、住民は200人台——2022年の国勢調査では258人とされる。いっぽうで島に暮らす赤鹿はおよそ5,000頭と言われ、単純に数えれば鹿は人の20倍近い。
島の名の由来については、古ノルド語で「鹿の島」を意味する言葉に遡るという説がよく語られる。ただし別の語源説もあり、定説として確定しているわけではない。諸説あるものとして受け止めておきたい。
重要なのは、この島がずっと人の少ない島だったわけではない、という点だ。記録に残る人口のピークは1831年の1,312人。つまりジュラは、二世紀のあいだに人口を大きく減らしてきた島なのである。この「減り続けた」という事実が、のちに蒸溜所の運命を左右することになる。
オーウェルが選んだ「たどり着きがたい場所」
1946年、ジョージ・オーウェルはロンドンを離れ、ジュラ島の北端にあるバーンヒルという一軒家に居を移した。電気も電話もなく、周囲に人家もほとんどない場所だった。オーウェル自身、この島を「extremely unget-at-able(きわめてたどり着きがたい)」と書き残している。
彼はここで、結核に蝕まれながら『1984』を書き継いだ。作品が世に出たのは1949年6月。その翌年の1月に、オーウェルは46歳で亡くなっている。
ディストピア小説の金字塔が、電気も通らない北の島の農家で書かれた——この事実だけでも、ジュラという島には妙な引力がある。
渦潮に飲み込まれかけた夏
1947年8月、執筆の合間にオーウェルは、幼い息子と甥・姪を連れてボートで海に出た。だが帰り道、潮汐表を読み違えたために、ジュラ島とスカルバ島のあいだに生じる有名な渦潮「コリーヴレッカン」の縁へ引き込まれてしまう。
渦のなかで船外機はもぎ取られ、一行はどうにか小さな岩礁へ漕ぎ着ける。だが上陸のはずみでボートは転覆した。彼らは数時間その岩の上で待ち、通りかかったロブスター漁船に発見されて、ようやく命を拾っている。オーウェルはその日の日記に、彼らしい淡々とした調子で「帰りに渦に入り、全員溺れかけた」と記した。
ウイスキー好きにとって、この「コリーヴレッカン」という響きには聞き覚えがあるはずだ。アイラのアードベッグがリリースする力強い一本は、まさにこの渦潮の名を冠している。

このコラムの関連
関連するボトル

関連する蒸留所
次に読む

なぜ蒸溜所は、酒を造る工場なのに見学者を招き入れるようになったのか——1969年に開いた一枚の扉と、年270万件の訪問
蒸溜所はもともと、一般客に語る動機がない場所だった。1969年にグレンフィディックが開いた受付棟から、年270万件の訪問を集める産業へ。蒸溜所見学が生まれた理由と、日本の人気蒸溜所で製造現場が抽選制になった事情をたどる。

なぜジョニーウォーカー ブルーラベルは、年数表記がないのに「最高峰」なのか——初期ボトルに刷られた「15〜60年」と、静かに消えた一行
ブラックラベルは「12年」と刻むのに、シリーズの頂点に立つブルーラベルには年数がない。1987年に「オールデスト」として生まれた一本の、初期ラベルに刷られていた「15-60年」という一行の行方をたどる。




