なぜスコッチウイスキーは「密造酒」から生まれたのか——税務官と山の民、そして最初に表へ出た男
スコッチの名門の多くは、もとをたどれば税を逃れる「密造」から始まった。重税に追われた山の造り手たち、そして1823年の酒税法——違法だった山の酒が世界の酒になるまでの物語を、グレンリベットの創業者を軸にたどる。
いまでは高級酒の代名詞でもあるスコッチウイスキー。だがその歴史をさかのぼると、産業の礎を築いたのは、税を逃れて山中で酒を焚いた「密造者」たちだった。この記事では、なぜスコッチが違法な酒として生まれ、どうやって表舞台へ出てきたのかを、一つの蒸留所の物語を軸にたどる。
税金が「山の酒」を生んだ
事の発端は税だった。スコットランドでは17世紀からウイスキーに酒税がかけられ、1707年にイングランドと合同(合邦)すると、両国に同じ税制が敷かれる。これを多くのスコットランド人は「イングランドが自分たちの酒に口を出してきた」と受け止めた。納税を拒むことは、単なる節約ではなく一種の意地・誇りの問題でもあったと言われる。
こうして課税を嫌う造り手たちは、人目につかない高地(ハイランド)の谷あいへと姿を消していった。
密造の全盛期——摘発は年に1万件超
19世紀初頭、その規模は驚くべきものだった。当時スコットランドで飲まれるウイスキーの半分以上が無許可の密造酒だったとされ、1820年代前半には密造の摘発が年間1万4千件近くにのぼったという。それでも氷山の一角に過ぎなかった。
造り手たちは巧妙だった。仕込んだ酒を棺桶に潜ませ、地中に埋め、船で運び、時には教会にまで隠したという。蒸留小屋は見張りの利く山中に建てられ、近づく者があればすぐ火を消して逃げられるようになっていた。
一方、これを取り締まる税務官は「ゴーガー(gauger)」と呼ばれた。造られた酒の量を「計量(gauge)」して課税するのが役目だったからだ。彼らは村人からまったく協力を得られないどころか、脅され、襲われ、時に命まで奪われることもあった。山の民と税務官の攻防は、しばしば血なまぐさいものだった。
1823年、ルールが変わった
転機は1823年に訪れる。地元の大地主だったゴードン公爵らが「取り締まるより、割に合う形で合法化したほうが得だ」と議会を動かし、成立したのが1823年酒税法(Excise Act)である。
この法律は酒税を半分以下へ引き下げ、年間10ポンドの免許料を払えば合法的に蒸留できる道を開いた。免許蒸留所の数は1823年の111軒から、わずか2年後の1825年には263軒へと倍以上に増える。地下に潜っていた造り手たちが、次々と表に出てきたのだ。そして密造の時代も、その後わずか十数年でほぼ姿を消していった。
最初に表へ出た男——グレンリベットのジョージ・スミス
この新しい波に真っ先に飛び込んだのが、ハイランドの片隅で酒を造っていた密造者ジョージ・スミスだった。彼の父アンドリューは1774年から無免許で酒を造っていたが、ジョージは1824年、10ポンドを払ってハイランドで最初に合法免許を取得した造り手となる。
だが「裏切り者」への風当たりは激しかった。仲間の密造者たちは「蒸留所ごと焼き払ってやる」と脅し、スミスは身を守るため常に一対のピストルを携えていたと伝わる。彼が守り抜いた蒸留所こそ、いまも世界中で愛されるグレンリベットである。

The Glenlivet Founder's Reserve
🏴 スコットランド ・ ザ・グレンリベット蒸留所 ・ シングルモルト ・ NAS ・ 40%
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