ウイスキーの熟成は、樽の中だけで起きているわけではありません。夏に温まった原酒は膨らんで木に染み込み、冬に冷えると縮んで戻ってきます。樽板を通じて水分やアルコールも少しずつ抜けていきます。つまり、貯蔵庫の気温と湿度がそのまま熟成のペースと方向を左右します(→熟成庫のタイプで熟成はどう変わるか)。
山の中を貫くトンネルは、この点で地上の倉庫とは性質が違います。外の気温が大きく動いても、トンネルの奥の温度は変わりにくいのが特徴です。公式サイトは戸河内貯蔵庫を「四季を通じて冷涼な気温を保つ」うす暗い貯蔵庫と表現しています。海外の紹介記事には、同社の説明として「年間を通じて14℃前後・湿度80%ほど」という数字も出てきます。
寒暖差の大きい場所では樽の呼吸が深く、熟成は速く進みます(→なぜ暑い土地のウイスキーは早く熟成するのか)。冷涼で温度が一定のトンネルはその逆で、変化はゆっくり、穏やかに進むと考えられます。
湿度にも意味があります。一般に、湿度の高い貯蔵庫では水よりアルコールが抜けやすく、度数は年々わずかに下がっていきます。反対に乾いた暑い倉庫では水が先に抜け、度数が上がることもあります。スコットランドの石造りのダンネージ式熟成庫が前者、ケンタッキーの高層ラックハウスが後者の典型です。湿った暗がりのトンネルは、どちらかといえばスコットランド型に近い環境です。
公式のテイスティングノートを並べると、二本の性格の違いがよく見えます。
桜尾のシングルモルトは、桜尾貯蔵庫で3年以上寝かせた4種類の樽を合わせたものです。色は「濃い琥珀色」、香りにはレーズンやオレンジ、桃が挙がり、余韻にはスモーキーさと濃い甘さがあるとされています。
戸河内のシングルモルトは、トンネルで3年以上熟成させたバーボン樽の原酒です。色は「黄金色」、香りはバニラ、リンゴ、マーマレード、メロンで、すっきりした甘さと切れのよい余韻と説明されています。
もっとも、樽の構成も違うので、この差をすべてトンネルのおかげと言い切ることはできません。それでも、同じ蒸溜所の原酒を、あえて性格の違う二つの土地に分けて置く。その設計自体が、この造り手の個性になっています。
もうひとつ興味深いのは、「戸河内」という名前の歴史が、桜尾蒸溜所よりずっと古いことです。
同社の現行ブレンデッドのページには、「かつて戸河内トンネルに眠っていたウイスキーから始まった世界への一歩」という一文があります。海外の解説記事によれば、同社は1990年からウイスキーを手がけていました。当時はスコットランドのモルトとカナダのグレーンを輸入し、同社がトンネルで熟成・ブレンドして「戸河内」の名で出していたとされます。
こうした造りは、日本洋酒酒造組合が2021年に定めた自主基準のもとでは、「ジャパニーズウイスキー」とは名乗れません。この基準は、日本国内での蒸溜や3年以上の国内熟成などを求めているからです(→なぜジャパニーズウイスキーには定義が必要だったのか)。
現在の戸河内ブレンデッドは、公式サイトによれば桜尾蒸溜所で蒸溜・貯蔵したモルトとグレーンから造られています。主要な銘柄には「2021年に制定されたジャパニーズウイスキーの定義に準じた商品」という注記もあります。トンネルという場所と「戸河内」という名前は残し、中身を自社の原酒に入れ替えた。この名前の歩みは、日本のウイスキーがこの十数年で経験した変化の縮図とも言えます。
中古市場などで「戸河内」を見かけたら、ラベルに「ブレンデッド ジャパニーズウイスキー」の表記があるかを確かめてみてください。表記のない古いボトルは、輸入原酒の時代のものかもしれません(→本物のジャパニーズウイスキーの見分け方)。
ただし、このトンネルの出自については資料によって説明が食い違います。
公式は「JR廃線区間のトンネル」「かつて鉄道用として使われていた」と説明しています。JR可部線の可部〜三段峡間(戸河内駅もこの区間にありました)は、たしかに2003年12月に廃止されています。
一方、海外の解説記事には「1970年に、可部から島根県浜田まで路線を延ばすために掘られたが、計画が実現せず使われないまま残った」とする説明があります。三段峡から先を浜田へ延ばす計画(今福線)は実際にあり、1980年に工事が止まって未成線になりました。
長さについても、海外の記事には361mとあるものの、公式サイトでは数字を確認できません。また1970年なら掘ったのはJRではなく国鉄のはずですが、記事によってはJRと書かれています。列車が走ったトンネルなのか、走らずに終わったトンネルなのか。この記事を書いた時点では、一次資料で確定できませんでした。
- 桜尾蒸溜所は、瀬戸内海沿いの桜尾貯蔵庫と、山あいの戸河内トンネルの二か所で原酒を寝かせている。
- トンネルは外気の影響を受けにくく、一年を通じて冷涼な環境が保たれる(湿度も高いとされる)。熟成はゆっくり穏やかに進むと考えられる。
- 「戸河内」の名は、自社蒸溜が始まる前、輸入原酒をトンネルで寝かせていた時代から続いている。いまは自社原酒のジャパニーズウイスキーとして、同じ名前を受け継いでいる。
蒸溜所の場所だけでなく「どこで寝かせたか」に目を向けると、一本のウイスキーの読み方が少し変わります。海の桜尾と、山の戸河内。飲み比べるなら、ぜひ二本並べてみてください。