なぜスコットランド生まれのリタは「日本ウイスキーの母」と呼ばれるのか——余市に眠る、竹鶴政孝の妻の生涯
朝ドラ『マッサン』のモデル、竹鶴リタ。故郷スコットランドを離れ、後半生を北海道・余市で生きた一人の女性の物語と、彼女が「日本ウイスキーの母」と呼ばれる理由をたどる。
朝ドラ『マッサン』のヒロイン「エリー」を覚えている人は多い。だが、モデルになった実在の女性——竹鶴リタのことは、意外と知られていない。彼女はスコットランドに生まれ、後半生を北海道の小さな町・余市で過ごし、そこで亡くなった。ニッカウヰスキーの創業者・竹鶴政孝の妻であり、しばしば「日本ウイスキーの母」と呼ばれる人である。この記事では、一杯のウイスキーの裏側にある、彼女の静かな生涯をたどる。
医師の娘と、柔道の縁
リタの本名はジェシー・ロバータ・カウン。1896年、スコットランド・グラスゴー近郊のカーキンティロックで、医師の長女として生まれた。
政孝がこの家を訪れたのは、留学中の1919年ごろのこと。摂津酒造から本場のウイスキー造りを学ぶためスコットランドへ渡っていた彼は、カウン家の弟に柔道を教える縁で招かれ、リタと出会った。二人は音楽を通じて心を通わせ、やがて結婚を決める。
すべてを捨てて、日本へ
1920年1月、二人は登記所で式を挙げた。国際結婚がまだ珍しい時代、カウン家からも竹鶴家からも反対された、周囲を押し切っての結婚だった。
同じ年の11月、リタは見知らぬ極東の国へと旅立つ。言葉も文化も気候もまるで違う日本で、彼女は残りの人生を生きることになる。生まれ故郷スコットランドの土を再び踏んだのは、生涯で数回だけだった。
大阪の日々——夫の夢を支える
帰国した政孝を待っていたのは、順風満帆とはほど遠い日々だった。摂津酒造でのウイスキー計画は戦後不況で頓挫し、彼はしばらく職に恵まれない時期を過ごす。
大阪・帝塚山に暮らしたリタは、英語やピアノを教えて家計を支えたと伝えられる。やがて政孝は寿屋(現・サントリー)に招かれ、日本初の本格蒸溜所・山崎を造り上げる。異国で夫の理想を信じ続けたリタの存在が、その歩みを静かに支えていた。
余市——「スコットランドに一番近い町」で
1934年、政孝は寿屋を離れ、北海道・余市に自らの蒸溜所を興す。冷涼で湿った気候が故郷スコットランドを思わせるこの地こそ、彼が求めた場所だった。

会社の名は大日本果汁。ウイスキーが熟成するまでの歳月をしのぐため、まずはりんごジュースを造って売った。厳しい創業期を、リタは着物をまとい、日本の暮らしに溶け込みながら夫とともに耐えた。第二次大戦中は、敵国イギリス出身であることで厳しい目を向けられたとも伝えられる。それでも彼女は余市を離れなかった。
このコラムの関連
関連するボトル

次に読む

なぜ蒸溜所は、酒を造る工場なのに見学者を招き入れるようになったのか——1969年に開いた一枚の扉と、年270万件の訪問
蒸溜所はもともと、一般客に語る動機がない場所だった。1969年にグレンフィディックが開いた受付棟から、年270万件の訪問を集める産業へ。蒸溜所見学が生まれた理由と、日本の人気蒸溜所で製造現場が抽選制になった事情をたどる。

なぜジョニーウォーカー ブルーラベルは、年数表記がないのに「最高峰」なのか——初期ボトルに刷られた「15〜60年」と、静かに消えた一行
ブラックラベルは「12年」と刻むのに、シリーズの頂点に立つブルーラベルには年数がない。1987年に「オールデスト」として生まれた一本の、初期ラベルに刷られていた「15-60年」という一行の行方をたどる。





