なぜマルス駒ヶ岳は、標高798mの山の上で19年も眠っていたのか——竹鶴ノートを受け取った男が遺したスチル
竹鶴政孝がスコットランドから持ち帰った報告書を受け取ったのは、岩井喜一郎という技師だった。その設計を継いで中央アルプスに建ち、19年の休止を経て動き出したマルス駒ヶ岳蒸溜所の物語。
日本のウイスキー史を語るとき、名前が挙がるのはたいてい二人だ。サントリーの鳥井信治郎と、ニッカの竹鶴政孝。
だが、竹鶴がスコットランドから持ち帰った知識を受け取った人物は、もう一人いる。その男の名を冠したウイスキーが、いまも売り場に並んでいる。「岩井」——マルスウイスキーを造る本坊酒造の、原点にある名前だ。
そしてその系譜を継ぐ蒸溜所は、中央アルプスの標高798メートルという場所に建ち、19年ものあいだ蒸留を止めていた。
竹鶴ノートを受け取った男
1918年、竹鶴政孝は摂津酒造からスコットランドへ送り出された。派遣を決めたのは、社長の阿部喜兵衛と、常務だった岩井喜一郎である。
1920年に帰国した竹鶴は、現地で見聞きした製造工程を克明に記した「実習報告」を岩井に提出した。手書きの図や写真を交えたこの報告書が、のちに「竹鶴ノート」と呼ばれるものだ。
竹鶴はやがて寿屋(現サントリー)へ、そして自らのニッカへと進む。一方の岩井は摂津酒造を離れたのち、鹿児島の焼酎メーカー・本坊酒造の顧問に迎えられた。
本坊酒造がウイスキー製造免許を取得したのは1949年。その指導にあたったのが岩井だった。1960年には山梨に工場が完成し、「マルスウイスキー」の名で本格的に世に出る。この工場の設備を設計したのも岩井であり、その拠りどころとなったのが40年前に竹鶴から受け取ったあのノートだった、と伝えられている。
真偽を確かめる術はもうないが、少なくともマルスは、竹鶴の知識がニッカとは別のルートで枝分かれした先にある。日本のウイスキーの家系図における、もう一本の枝だ。
なぜ、山を登ったのか
1985年、本坊酒造はウイスキーづくりの拠点を山梨から長野県宮田村へ移した。中央アルプス・木曽駒ヶ岳の麓、標高798メートル。当時の名は「マルスウイスキー信州工場」で、いま「駒ヶ岳蒸溜所」と呼ばれる場所である。
理想の環境を求めての移転だったとされるが、結果としてこの土地が与えたものは大きかった。冷涼で、地下120メートルから花崗岩層を通った軟水が汲める。
熟成では、寒暖差と湿度が樽の呼吸を左右する。温暖な土地では樽の影響が速く強く出て、原酒の目減り(エンジェルズシェア)も大きい。冷涼な土地では時間がかかるぶん、変化が穏やかに進む。標高798メートルという立地は、日本のなかでは「ゆっくり熟成する側」に振れた条件だった。
蒸溜所を挟んで西に中央アルプス、東に南アルプス。この二つの稜線が、そのまま名前になったボトルもある。

このコラムの関連
次に読む

週70時間のバーボン工場と、12人のエンジニア——ウイスキーの現場で争われている「時間」
スコッチとバーボンの現場では、この10年ストライキがくり返されてきた。争われているのは賃上げだけではない。残業、シフト、そして「休暇1日=7時間12分」という計算式だ。

なぜスコッチの蒸溜所は、1回の蒸溜を3分で終えたのか——酒ではなく「スチルの容量」に税をかけた法律
18世紀の末から19世紀の初め、ローランドには1回の蒸溜を3分で終えた蒸溜所があった。税額が造った酒の量ではなく「スチルの容量」で決まったため、造り手は浅く広い皿のようなスチルを回し続けた。制度が酒の形を変えた記録。





