なぜスコッチ業界は、ドイツの造り手が名乗った「Glen」の一語を9年も追ったのか——名前を手放した蒸溜所と、守り抜いた蒸溜所
ゲール語で「谷」を意味するだけの「グレン」。この一語をめぐり、スコッチウイスキー協会とドイツの造り手は9年争った。EU司法裁判所が引いた線、一審と控訴審で入れ替わった根拠、そしてカナダでは結論が逆になった理由をたどる。
バーの棚から「グレン」で始まる一本を取るとき、その一語が9年におよぶ争いの的になったことを思い出す人はいないだろう。だが、それは実際に起きた。
追いかけたのはスコッチウイスキー協会(SWA)。的になったのは、ドイツ南西部で造られる一本のシングルモルトである。争点は「グレン」という、ゲール語で「谷」を意味するだけの言葉だった。
なぜ業界団体は、たった一語にそこまでこだわったのか。そして——この争いは、国境をまたぐと結論がひっくり返る。
シュヴァーベンの谷で生まれた「Glen Buchenbach」
舞台はシュトゥットガルト近郊のベルグレン。ヴァルトホルン蒸溜所(Waldhornbrennerei)が造るシングルモルトのラベルには、狩猟用の角笛の絵とともに「Glen Buchenbach」と刷られていた。
ラベルには「Swabian Single Malt Whisky(シュヴァーベンのシングルモルト)」とも、「ドイツ産」「ベルグレン製造」とも書かれている。産地を偽ってはいない。売り手側は、この名前は地名ベルグレンと地元の川ブーヘンバッハを組み合わせた言葉遊びだと説明していた。実際、蒸溜所があるのはブーヘンバッハの谷である。皮肉なことに、ドイツ側の名前もまた「谷」から来ていた。
それでもSWAは2013年、この名前が保護された地理的表示(GI)「Scotch Whisky」を侵しているとして使用中止を求め、やがてハンブルク地方裁判所での訴訟に発展する。被告になったのは、4代目の兄弟が営むこの蒸溜所のうち、ウイスキーをネットで販売していたミヒャエル・クロッツ氏だった。
EU司法裁判所が引いた線は、意外に厳しかった
ハンブルクの裁判所は自ら結論を出す前に、EU司法裁判所(CJEU)へ法解釈を尋ねた。2018年6月7日の判決(C-44/17)は、EUの蒸留酒規則が定める保護を、ひとつずつ切り分けている。
まず「間接的な商業使用」。これに当たるには、問題の表示がGIと同一か、音や見た目で似ている必要がある。「Glen」は「Scotch Whisky」とは似ていないので、この条項では捉えられない。
次が「evocation(想起させること)」。裁判所は、音や綴りが似ていなくても意味の上での近さは考慮しなければならないとしたうえで、ハードルの高さも示した。何らかの連想が働くだけでは足りない。平均的なEUの消費者の頭に、保護された産品の像が直接浮かぶ必要がある、と。
そして三つ目。ラベルに本当の産地が正しく書かれていても、それを考慮に入れてはならない、とも述べた。「ドイツ産と明記しているのだから誤解は生じない」という反論は、この枠組みでは通らない。
なお、この判決は「Glenは違反だ」と言い切ったものではない。物差しを渡しただけで、当てはめは各国の裁判所に委ねられた。
一審は「想起」を退け、別の理由で差し止めた
物差しを受け取ったハンブルク地方裁判所は、2019年2月7日、意外な道筋で結論を出す。
まず「想起」を否定した。「Glen」と「Scotch Whisky」のあいだに概念的な近さは認められず、連想が働くだけでは足りない——CJEUが示した高いハードルを、そのまま適用したのである。
それでも蒸溜所側は救われなかった。裁判所は別の条項、すなわち「誤認を招く表示」を根拠に差し止めを認めたのだ。「Glen」を冠したウイスキーはほぼすべてスコッチであり、消費者はこの表示からスコットランド産だと受け取る。「シュヴァーベンの」「ドイツ産」と書き添えても、その誤認は打ち消せない、と。
その7か月後、同じ街の上級審が「想起」を認めた
風向きが変わったのは、その年の秋である。ハンブルク上級地方裁判所は2019年9月19日、ドイツ産の「Glen Els」をめぐる別の訴訟で、一審のSWA敗訴を覆した。しかも、こちらでは「想起」も「誤認」もどちらも認めている。
そして2022年1月20日、同じ上級地方裁判所は「Glen Buchenbach」の控訴も棄却した(Az. 5 U 43/19)。根拠は一審とは違い、一審が退けたはずの「想起」のほうだった。上告(Revision)は許可されなかった。
蒸溜所を兄弟で営むユルゲン・クロッツ氏は、判決を「尊重し、受け入れる。ただし理解はできない」と語っている。相手は資源の面で圧倒的だった、とも述べた。ドイツの報道によれば、蒸溜所はこの一本を「Buchenbach Gold」と改め、ウイスキーを造り続けている。
ただし、カナダでは逆の結論が出ている
とはいえ「グレン」が、世界のどこでもスコットランドの独占物になったわけではない。しかもその判断は、EUの一連の裁判より10年近く早く出ている。
カナダ・ノヴァスコシア州のグレノーラ蒸溜所は、1990年に創業したカナダ初のシングルモルト蒸溜所だ。所在するケープブレトン島は、19世紀初頭にスコットランドからの移民が渡り、いまもゲール語と文化が生きている数少ない土地である。「グレン」を名乗ることに、この島なりの理由はあった。
それでもSWAは、看板商品「Glen Breton」の商標登録に立ちはだかる。根拠に挙げたのは、グレンリベット、グレンモーレンジィ、グレンフィディックといった銘柄の蓄積だった。「Glen」はもうスコッチを指す言葉になった、というわけだ。
2009年1月22日、連邦控訴裁判所は蒸溜所側の主張を認めた。「Glen」は数々の商標の一部として使われてきたが、それ単独でウイスキーの商標として使われた実績はない——だから禁止対象の標章にはあたらない、という理屈である。SWAは最高裁への上訴許可を求めたが同年6月に退けられ、11月、商標は正式に登録された。
EUではGIの「想起」や「誤認」という物差しで、カナダでは商標という物差しで争われた。物差しが違えば、同じ一語でも結論は変わる。
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