なぜアイラの蒸溜所は、海に向いた壁に大きく名前を書いているのか——「船のため」と語られる看板と、壁が灰色でも白い帯だけは引く一軒
ラフロイグ、ラガヴーリン、ボウモア。アイラ島の蒸溜所は海に向いた壁に黒い大文字で名を掲げる。船のための標識だったと語られるその表示を、蒸溜所が自前の桟橋と貨物船を持っていた時代の記録からたどる。
アイラ島の蒸溜所の写真を思い浮かべてほしい。低い建物が波打ち際に並び、その壁に黒い大文字で LAPHROAIG、LAGAVULIN、BOWMORE と書かれている。アイラの入門記事でも触れたとおり、この島の古い蒸溜所はどれも海のすぐそばにある。
不思議なのは、あの文字がたいてい海に向いた壁にあることだ。車で近づく見学者は、建物の裏側から回り込むことになる。では、あれは誰に向けて書かれているのか。
通説は「船のための標識」
よく語られる説明はこうだ——大麦や空樽を積んで本土から来る船が、どの入江に着ければいいかを見分けるための標識だった。BBCブランドの田園誌『Countryfile』も、20世紀半ばごろまで穀物と樽は船で届き、造られたウイスキーの大半も海路で出ていったため、白壁の黒い文字は「航行の助け」として働いたと書いている。
ただし、これを「いつ、誰が、そう決めたのか」という一次記録まで遡れたわけではない。蒸溜所の公式サイトが由来を明記している例も見当たらなかった。素朴に考えれば、行き先の決まっている船が自分の桟橋を見失うとは考えにくいし、いま壁にある文字の多くは20世紀以降に塗り直された「ブランドの表示」でもある。広く共有された説明ではあるが、確定した史実として断定はできない——ウイスキーにはこの種の話が多いので、ここは正直に留保しておきたい。
とはいえ、その説明が成り立つ前提のほうは、はっきり裏が取れる。アイラの蒸溜所にとって、海は風景ではなく道路だった。
桟橋がなければ、蒸溜所は建たなかった
1881年、ブレンダーのウィリアム・ロバートソンらは、島の北東の外れにブナハーブン蒸溜所を建てた。当時その一帯はほとんど無人で、事業は蒸溜所を建てるだけでは済まなかった。働き手を住まわせる家を用意し、道を通し、そして大麦と空樽を運び込み、ウイスキーを運び出すための桟橋を築いている。総額は3万ポンド。出典の換算で、現在のおよそ260万ポンドにあたる。
1886年にこの蒸溜所を訪ねた記録者アルフレッド・バーナードは、当時の物資が蒸溜所の桟橋を通じて出入りしていたこと、その桟橋の建設費が3,500ポンドだったことを書き残している。総工費の1割を超える額が、船着き場に投じられていたことになる。

カリラ蒸溜所の場合はもう少し時間がかかった。1846年にヘクター・ヘンダーソンがポートアスケイグ脇の小さな入江に建てたこの蒸溜所は、経営者が入れ替わったのち1863年にグラスゴーのブロック・レイド社(Bulloch, Lade & Co)の傘下に入る。そして1870年代後半の大規模な建て直しで、ようやく本格的な桟橋を得た。バーナードはそれを「」と評している。
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