なぜ乾杯でグラスを合わせるのか——「毒を確かめるため」説の出どころと、ウイスキーの国が贈る一言
「毒が入っていないと示すためにグラスを合わせた」——宴席で必ず出るこの説は、実はファクトチェックで否定されている。乾杯の起源をたどり、英語の「toast」がパンだった話から、スコットランドの「スランジ・ヴァ」までを整理する。
グラスを持ち上げ、隣の人のグラスに軽く当てる。チン、と澄んだ音がして、その夜が始まる。
考えてみると、これは不思議な動作だ。酒を飲むだけなら、グラスを合わせる必要はまったくない。中身が減るわけでも、味がよくなるわけでもない。それなのに、世界のかなり広い範囲で、人は飲む前に器をぶつけている。
なぜだろう。この問いには有名な「答え」があって、それがまた、ウイスキーを飲む席でよく披露される。ただ、その答えには裏づけが見つかっていない。この記事では、広まりすぎた俗説の出どころと、歴史の側から言えること、そしてスコットランドがウイスキーの一杯に贈る言葉までを追ってみたい。
「毒を混ぜて確かめるため」——最も有名で、根拠の最も薄い説
こう聞いたことはないだろうか。中世のヨーロッパでは毒殺が日常茶飯事で、互いの杯を強くぶつけ合えば中身が飛び散って相手の杯に入る。だから「私の酒には毒が入っていない」と証明するために、乾杯でグラスを合わせるようになった——。
映画的で、いかにも本当らしい。宴席で話せば必ず受ける。だが、これは史実として確認されていない。事実検証サイトのSnopesはこの由来を明確に否定しており、雑学メディアのRipley'sも同じ結論を出している。要するに、この説を支える当時の史料が見つかっていないのだ。
動作としても無理がある。杯を打ち合わせてこぼれた酒の大半は、相手の器ではなく床に落ちる。狙って移し入れられるものではない。しかも、健康を祈って共に飲むという行為自体は、一人ひとりが自分の器を持つ習慣よりも古い。毒味を起点にすると、乾杯という習わしの古さを説明しきれなくなる。
なぜこの説が広まったのかは、それ自体が面白い。毒殺という具体的な情景があり、由来の説明が一本の線でつながり、聞いた人が誰かに話したくなる。物語として、あまりにもよくできているのだ。ウイスキーの世界には同じ構造の逸話がいくつもある。よくできた話ほど、疑ってかかったほうがいい。
では本当のところは——「よく分かっていない」
正直に書くと、乾杯でグラスを合わせる習慣の起点は特定されていない。これが一番つまらない、しかし一番正確な答えだ。ただ、輪郭くらいは見えている。
ひとつは、酒を分かち合う儀礼としての古さだ。誰かの健康を祈って飲むという行為は古代ギリシャ・ローマの飲酒文化にすでに根を持ち、神々に酒を注いで捧げる献酒とも地続きだった。さらに古い時代にまで遡る可能性もある。乾杯の核にあるのは、毒の検査ではなく「同じものを一緒に飲む」という信頼の身ぶりだったと考えるほうが自然だろう。
もうひとつは、音である。食卓の作法を研究したマーガレット・ヴィッサーは、グラスを打ち合わせる動作が、飲むという体験に足りなかった感覚を補うものだと説明している。酒は見て、香って、味わって、手で持つ——視覚、嗅覚、味覚、触覚は使われるのに、聴覚だけが取り残されている。そこに音を加えるのが、あの一瞬だという説だ。ヴィッサーは、この習慣が広まったのは器がよく響くようになってからだとみている。
興味深いのは、その「響くガラス」が生まれた経緯である。しかも、狙って生まれたものではなかった。
イングランドのジョージ・レイヴンズクロフトは1674年、水晶に似た透明なガラスで7年の特許を取得する。黒いフリント(燧石)を用いた処方で、「フリント・クリスタリン」と名づけられた。ヴェネツィアが15世紀半ばに完成させた名高い透明ガラス、クリスタッロに対抗するための開発だった。
ところが、この製品には欠陥があった。数か月で白く曇ってしまう「クリズリング」という現象である。その対策として、レイヴンズクロフトは1675年から翌年にかけて鉛(多くは鉛丹)を加えた。すると曇りが解消しただけでなく、重く緻密で、屈折率が高く輝きの強いガラスになった。そして打ったときに、独特の澄んだ響きを持つようになった。1676年には業界団体が「欠陥は解決した」と公告している。
つまり鉛クリスタルは、失敗の手当てとして生まれ、その副産物としてあの音を手に入れた。銘々のグラスで飲む席で、鳴るようになったガラスが「一緒に飲んでいる」という感覚をつなぎ止めた——そう考えると、あの音にはそれなりの役目があったことになる。
これも断定はできない。ただ、毒殺説よりはずっと穏当で、傍証もある。
そもそも「トースト」は、本当にパンだった
英語で乾杯を意味する「toast」が、あの焼いたパンと同じ綴りなのを不思議に思ったことはないだろうか。これは偶然ではなく、本当にパンから来ている。
16〜17世紀のイングランドでは、ワインに香辛料を効かせた焼きパンを浮かべる飲み方があった。酸味を吸わせて風味を整える目的だったといわれ、シェイクスピアの『ウィンザーの陽気な女房たち』にも、フォルスタッフが酒にトーストを入れてくれと注文する場面がある(第3幕第5場)。硬くなったパンの使い道でもあった。
やがて、その「風味を添えるもの」という比喩が、健康を祈られる相手——とくに乾杯の対象となった女性——へと移っていく。彼女がワインに風味を添えている、という見立てだ。「誰かの健康を祈って飲むこと」という意味でのtoastは、記録上は1690年代に現れる。ただし『タトラー』を創刊した随筆家リチャード・スティールは1709年に、この習慣自体はチャールズ2世の治世(イングランドでは1660〜85年)に遡ると書いている。スティールの言うとおりなら、言葉が記録に残るより慣習のほうが先にあったことになる。そして1746年には、toastが「乾杯される当人」を指す用例が現れる。
つまり英語圏の乾杯は、器を鳴らす行為ではなく、酒に浮かべた一切れのパンから名前をもらった。「街の話題の人(toast of the town)」という言い回しの、あの遠い先祖である。
スコットランドがウイスキーに贈る一言
ウイスキーの席なら、覚えておきたい言葉がある。スコットランド・ゲール語の「Slàinte Mhath」だ。
意味は「良い健康を」。スランジ・ヴァ、と読む。綴りから受ける印象とはずいぶん違うが、で、読み方が予想を裏切るのはいつものことだ。「Mhath」の「mh」がvの音になる、と覚えておけばいい。
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