なぜスコッチの建設ラッシュは、1898年の暮れに突然終わったのか——パティソン恐慌と、裏の取れない「鸚鵡500羽」の逸話
1890年代のスコッチ業界は建設ラッシュに沸き、10年で33の蒸溜所が生まれた。そのきっかけを断ったのは戦争でも禁酒法でもなく、リースにあった一社の破綻だった。1898年12月のパティソン恐慌と、いまも語られる鸚鵡の逸話の出どころをたどる。
いまスペイサイドのシングルモルトを手に取ると、「創業1898年」と書かれた銘柄がいくつも見つかる。ベンリアック、ベンロマック、グレンエルギン。1890年代の10年間に、スコットランドでは33の蒸溜所が新しく開業し、そのうち26がスペイサイドに集中した。ウイスキーは儲かる、と誰もが信じた時代だった。
ところがこの建設ラッシュは、1898年の暮れに突然終わる。きっかけは戦争でも禁酒法でもない。エディンバラの外港リースにあった、一つのブレンド会社の破綻だった。
牛乳商から、ブレンドの寵児へ
パティソン家はもともとエディンバラの乳製品卸だった。1882年、兄弟のロバートとウォルターがアレクサンダー・エルダーを共同経営者に迎えてパティソン・エルダー商会を興し、1887年からウイスキーのブレンドと販売を始める。
追い風は、海の向こうの不運だった。害虫フィロキセラがフランスのブドウ畑を壊滅させ、コニャックが世界の棚から消えていた。その空席にスコッチが滑り込んだのだ。1889年にこの商会を株式公開したとき、兄弟が手にした利益は約10万ポンド。勢いに乗って1896年、資本金40万ポンドのパティソンズ社として改めて市場に出る。グレンファークラスの半分、オーバンとオルトモアを保有する会社の株、グレーンウイスキーの蒸溜所、そしてエディンバラの醸造所まで抱え込んだ。

広告に注ぎ込んだ金と、鸚鵡の話
彼らを有名にしたのは酒質ではなく、宣伝だった。1897年の広告費は2万ポンド。翌1898年はおよそ3倍の6万ポンドに膨らむ。エディンバラでの商談に向かうのに自分たちで特別列車を仕立て、1マイルあたり5ポンド1シリングを払った。
その派手な宣伝のなかで、いちばん有名なのが鸚鵡の話である。500羽のヨウム(アフリカングレー)に「パティソンズのウイスキーを買え」と覚えさせ、酒場や酒販店に配ったという逸話だ。ウイスキーの入門書でもよく紹介される。
その鸚鵡は、本当にいたのか
ところが、裏を取ろうとすると何も出てこない。オークションハウスの検証記事によれば、活字で確認できる最も古い記録は1898年12月13日の『ウェストミンスター・ガゼット』紙——株価が暴落した12月5日の8日後である。しかもそこに書かれているのは、リースの船主が語ったという伝聞で、数は「リヴァプールの酒場に50羽」、肝心の銘柄名は伏字になっている。つまり「パティソンズの鸚鵡」として活字になった最古の例ですらない。
ヴィクトリア朝の新聞は喋る鸚鵡の話を好んで載せたのに、実際に店先にいたパティソンズの鸚鵡を報じた記事は見つからない。1890年代半ばに同社の倉庫を訪ねたアルフレッド・バーナードの記録にも、鸚鵡は一羽も出てこない。話は60年ほど眠ったのち、ロス・ウィルソンの著書『Scotch Made Easy』(1959年)で紹介されて甦る。このときすでに数は50羽から500羽になり、配り先も「リヴァプールの酒場」から「スコットランドの酒販免許つき食料品店」に変わっていた。
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