なぜキャンベルタウンは「世界のウイスキー首都」から没落し、聖地として甦ったのか——30超の蒸溜所が3つになった町
19世紀、30を超える蒸溜所がひしめき「世界のウイスキー首都」と呼ばれたキャンベルタウン。なぜ町は没落し、わずか3蒸溜所で「聖地」として甦ったのか。竹鶴政孝も学んだ港町の栄光と復活の100年を辿る。
スコットランド南西部、キンタイア半島の先端近くにキャンベルタウンという港町がある。現在の人口はおよそ5,000人。ところが19世紀、この小さな町は「世界のウイスキー首都」と呼ばれ、最盛期には30を超える蒸溜所がひしめいていた(同時に稼働していた数には諸説ある)。それが現在はわずか3つ。それでいて、ここのボトルは新しいリリースのたびに世界中の愛好家が奪い合う——キャンベルタウンはいま、スコッチ最小の産地にして最も熱い「聖地」である。
栄光と没落、そして復活。この記事では、この港町のおよそ100年を辿りながら、なぜウイスキーの首都が滅びかけ、なぜ甦ったのかを読み解く。
「ウイスキーの首都」と呼ばれた町
キャンベルタウンの強みは、ウイスキーづくりに必要なものが一通り揃っていたことだった。半島の農地は大麦を育て、近郊の炭鉱は蒸留釜を焚く石炭を供給し、湾はニシン漁で賑わった。そして何より、深い入り江の良港が蒸気船でグラスゴーと直結していた。樽を積み出すには申し分ない立地である。
かくして19世紀後半、この町はヴィクトリア朝の好景気とブレンデッドウイスキーの隆盛を追い風に沸き立った。入り江の水がまるごとウイスキーだったなら——後世の流行歌にそう歌われるほど、町の記憶は酒とともにある。
なぜ没落したのか——重なった不運と、自ら招いた失速
19世紀の終わりから、不運が立て続けに町を襲う。1898年、大手ブレンド業者パティソン社の破綻に端を発する業界不況で、ウイスキーが市場にだぶついた。第一次世界大戦では大麦は食糧用途に回され、酒税の大幅な引き上げが重なり、1920年に始まったアメリカの禁酒法は最大の輸出市場を奪った。
追い打ちをかけたのが嗜好の変化だ。ブレンデッド全盛の時代に求められたのはスペイサイド産のような軽やかな原酒で、キャンベルタウンの油分が多く、煙たく、力強い酒質は次第に「時代遅れ」とされていった。需要が細るなかで一部の蒸溜所が品質を犠牲にした量産に走り、町全体の評判を落としたとも伝えられる。「ニシンを詰めていた樽でウイスキーを熟成させた」という真偽不明の悪評まで、いまに語り草となっているほどだ。頼みだった炭鉱も枯渇に向かい、燃料の優位も失われた。
結果は劇的だった。1920年代だけで17の蒸溜所が扉を閉じ、1930年代半ばに生き残っていたのはスプリングバンクとグレンスコシアの2つだけ。「首都」は10年余りでほぼ沈黙した。
竹鶴政孝が学んだ町
じつは日本のウイスキーにとっても、キャンベルタウンは特別な場所だ。1920年、のちにニッカウヰスキーを創業する竹鶴政孝が本格的な実習の地に選んだのは、当時この町で最大級とされたヘーゼルバーン蒸溜所だった。ここでの学びを綴った「竹鶴ノート」は、日本のウイスキーづくりの原点とも呼ばれる。
ヘーゼルバーンそのものは没落の波に呑まれて閉鎖された。しかしその名はいま、スプリングバンク蒸溜所が造る3回蒸留・ノンピートのモルトに受け継がれている。滅んだ蒸溜所の名前が、海の向こうの日本と細い糸で結ばれている——キャンベルタウンの物語の、静かな余韻である。

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