なぜお酒を一杯飲むと、外国語が口から出てくるのか——聞き手の採点だけが上がり、話した本人は気づいていなかった
一杯で外国語が滑らかになる、という酒場の実感を、ドイツ語母語の学生50人を二群に分けて確かめた実験がある。2025年のイグ・ノーベル平和賞。上がったのは聞き手がつけた点だけで、話した本人の自己評価は動かなかった。
海外のバーのカウンター。最初の一杯を頼むまでは、英語が喉の奥でつかえている。ところがグラスが半分ほど減ったころ、なぜか言葉が勝手に出てくる。
この感覚には、英語圏で古い呼び名がある。Dutch courage——「オランダ人の勇気」。酒の力で出てくる度胸のことだ。
言い伝えの類だと思われてきたこの現象を、実際に実験室で確かめた研究がある。ドイツ語を母語とする学生50人を二つの群に分け、片方にだけウォッカを飲ませて、オランダ語で議論させたのである。2025年9月18日、この研究はイグ・ノーベル平和賞を受賞した。
結果は、研究者たち自身の予想と逆だった。そしていちばん奇妙なのは「何が良くなったか」ではなく、話した本人の側に、その手応えがなかったことのほうである。
パブに似せた部屋で、ウォッカとビターレモンを250ml
論文はフリッツ・レナーを筆頭著者とする4人の研究者によるもので、2017年にオンライン公開され、『Journal of Psychopharmacology』2018年1月号に掲載された。レナーは当時、英ケンブリッジのMRC認知・脳科学ユニットとマーストリヒト大学に籍を置いており、実験もマーストリヒト大学で行われている。
参加者は、そのマーストリヒト大学で心理学を学ぶドイツ語母語の学部2年生50人。当時、この心理学課程はオランダ語で行われており、外国人学生は入学時に国家語学試験(NT2)に合格していた。つまり全員が「最近オランダ語を習得したばかり」という、条件のそろった集団である。平均年齢22.59歳、35人(70%)が女性だった。
参加者は無作為に二群へ分けられた。
- アルコール群:ウォッカ(スミノフ レッド、37.5%)をビターレモンで割った約250mlのロングドリンク。量は性別と体重から計算され、血中アルコール濃度が約0.4‰になるよう調整された
- 対照群:約250mlの冷水
いずれも10分で飲み干し、ヘッドホンで器楽曲を聴きながら15分待つ。実験室はパブに似せた内装で、時間帯は午後1時から4時。飲み物を渡す担当者と、このあとの課題を行う担当者は別人で、後者は誰がどちらの群かを知らされていない。
課題は単純だった。「動物実験の賛否について、オランダ語で2分間論じる」。この会話は録音され、条件を知らされていないオランダ語母語話者2名が採点した。採点者は言語の専門家ではない、ふつうの母語話者である。
参加者自身も、直後に自分のオランダ語を9項目で自己採点した。さらに二つの測定が加えられている。飲酒による自己評価の甘さが言語以外にも広がるかを見るための算数の課題(2分で13問)と、効果を「酒で得た自信」で説明できるかを確かめるための自尊感情の尺度である。
研究者の予想は「下手になる」だった
ここは押さえておきたい。研究チームは「うまくなる」を証明しに行ったのではない。逆の予想を立てていた。
外国語を話すとき、脳の中では母語と外国語の単語が同時に立ち上がり、選択を争う。正しいほうを選び、母語のほうを押さえ込むには抑制制御——実行機能が要る。そしてアルコールが実行機能を鈍らせることは、繰り返し確かめられてきた。理屈からすれば、飲めば外国語は下手になるはずだった。
もう一つの仮説はこうだ。飲んでうまくなるのは気のせいで、実際には自己評価だけが甘くなっているのではないか。これがまさに「Dutch courage=酒で得た自信」という説明である。
つまり研究チームの本命は、**「聞き手の点は下がり、自己評価だけが上がる」**という筋書きだった。
結果は、両方とも外れた
盲検の母語話者2名による総合評価(0〜100)は、こうなった。
- アルコール群:61.53
- 水群:56.65
差は統計的に有意で(p=.02)、効果量はd=0.72。心理学の実験としては小さくない開きである。飲んだ群のほうが上手い、と聞き手には聞こえた。
では、何が上手く聞こえたのか。採点者は総合評価とは別に、発音・文法・語彙・議論の質の4項目にも10点満点で成績をつけている。この4項目のうち、差が出たのは発音だけだった。総合点の差は発音の点の高さで説明がつく、と論文は書いている。
- 発音:アルコール群 6.72 / 水群 6.27(d=0.66、pはちょうど.05の境界)
- 文法・語彙・議論の質:いずれも差は検出されなかった
ただしここは慎重に読みたい。これは論文自身が「探索的」と断っている追加分析であり、しかも各群25人前後という規模で、発音でやっとp=.05に届いている。他の3項目の「差なし」は、差が無いことの証明ではない。あれば必ず見つかったはずだ、とは言えないからだ。
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