なぜカーデュは、密造の丘からジョニーウォーカーの「故郷」になったのか——赤い旗を掲げた女性と、業界を揺るがした「ピュアモルト」事件
日本ではあまり見かけないカーデュ。だがこの蒸溜所は、密造の丘で赤い旗を掲げた女性に始まり、グレンフィディック誕生に旧スチルを譲り、2003年には「ピュアモルト」事件で業界を二分した。
カーデュ(Cardhu)というシングルモルトを、あなたは棚で手に取ったことがあるだろうか。名前は聞いたことがあっても、隣に並ぶマッカランやグレンフィディックほど幅を利かせているわけではない。日本での流通量も、決して多くはない。
ところがこの蒸溜所は、スコッチの歴史のかなり中心に居座っている。しかもその出発点は、密造酒を造る農家の夫妻だった。
丘の上で旗を掲げた女性
カーデュの物語は1811年、ジョン・カミングとヘレン・カミング夫妻が、スペイ川を見下ろすノッカンドゥの「カードウ農場」を19年契約で借りたところから始まる。当時のハイランドでは、農閑期にこっそりウイスキーを蒸溜するのはごく普通のことだった。
正式な免許がジョン名義で下りたのは1824年。前年1823年の酒税法改正で、一定以上の大きさのスチルには年10ポンドの免許料、酒税は1ガロンあたり2シリング3ペンスと定められ、小規模な合法蒸溜がようやく採算に乗るようになった——密造者たちが次々と表の商売へ出ていった、あの時期である。
もっとも、現場を切り盛りしていたのはヘレンだったと伝えられる。1880年代に英国中の蒸溜所を訪ね歩いた記録者アルフレッド・バーナードは、彼女について、男にも劣らぬ勇気と行動力を持つ非凡な人物だった、という趣旨の記述を残している。収税吏が丘を登ってくると、粉まみれの手でパンを焼いているふりをして蒸溜所をパン焼き場に見せかけ、茶を出してもてなしながら、家の上に赤い旗を掲げて近隣の密造者へ危険を知らせた——そんな逸話が繰り返し語られてきた。細部まで裏づけの取れる話ではないが、少なくとも19世紀末には、彼女が「そういう人物」として記憶されていたことは確かだ。
古いスチルは、グレンフィディックになった
蒸溜所を本格的に大きくしたのは、息子ルイスの妻、つまりヘレンの義理の娘にあたるエリザベス・カミングだった。1872年に夫を亡くしたあと経営を引き受け、1884年から85年にかけて隣接地に新しい蒸溜所を建てて移転している。
このとき彼女は、まるごと余った旧設備を廃棄せず、ある人物へ売った。ウィリアム・グラント——1886年、その中古のスチルを使って自分の蒸溜所を興した男である。最初のスピリッツが流れたのは翌1887年のクリスマスだった。それが、世界最大級のシングルモルトとして長年トップを争ってきたグレンフィディックである。カーデュの「お下がり」が、もう一つの巨人の最初の一滴を生んだことになる。

ジョニーウォーカーの「故郷」になるまで
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