なぜデュワーズは、日本のハイボールの定番になったのか——地球を一周した次男と、「ハイボールを発明した」という自称
スーパーの棚でよく見かける一本は、2024年にスコッチの国内販売金額1位に立った。19世紀末に26カ国を売り歩いた次男トミー・デュワーの足跡と、「ハイボール発祥」という自称の真偽をたどる。
スーパーやコンビニの棚でよく見かける、白地に赤い文字のラベル。デュワーズ ホワイトラベル——実勢1,500円前後で買える、ハイボール用の「とりあえずの一本」だ。
だが、この気安い一本は、いまや日本で最も売れているスコッチでもある。バカルディジャパンの発表によれば、デュワーズの国内販売は過去5年で2.5倍に伸び、2024年にはスコッチウイスキーの国内販売金額で第1位に立った。
なぜ、数あるブレンデッドスコッチのなかで、この一本だったのか。理由をたどると、19世紀末に地球を一周した一人の男と、「ハイボールは自分が見つけた」という、真偽の定まらない自称に行き着く。

パースの目抜き通りから始まった
デュワーズの出発点は1846年、スコットランド中部の街パース。ジョン・デュワーが、目抜き通りのハイストリートにワインとスピリッツを扱う店を開いた。当時のウイスキーは樽から量り売りされるのが当たり前だったが、彼は自らブレンドした酒を、ブランド名を刻んだガラス瓶に詰めて売った先駆けの一人だったと伝えられている。
創業者は1880年に世を去り、事業は長男ジョン・アレクサンダー——1879年にすでに共同経営者となっていた——が継いだ。そして1885年、次男のトミーが共同経営者に加わる。兄が地元で経営を固め、弟が外へ出て売る。この役割分担が、地方の一商店を世界ブランドに変えていく。
地球を一周した次男
1892年、トミー・デュワーは2年をかけて世界を巡る商用旅行に出る。訪れた国は26。シドニー、ヨハネスブルク、カルカッタといった遠隔地を含め、32の販売代理店と契約を結んで帰ってきた。彼はその道中を旅行記としても出版している。
現代の感覚では地味に見えるかもしれない。だが電信と船便しかない時代に、一人の人間が世界地図の上へ販路の網を敷いたということだ。1893年にはヴィクトリア女王からロイヤルワラント(王室御用達)を授かり、ブランドの格も定まる。
トミーは広告の使い手でもあった。1890年代末、ニューヨークで動く映像を使った広告——キルト姿の男たちが踊るだけの短い映像——を打っている。エジソン社が手がけたこの映像は、現存する最古級の広告フィルムのひとつとして知られる(制作年は1897年とも1898年とも言われ、記録は一致していない)。
「ハイボールを発明した」——その自称は本当か
日本語のウェブでデュワーズを調べると、しばしば「ハイボール発祥のスコッチ」と紹介される。この呼び名の出どころも、やはりトミーだ。
正確に言えば、彼が語ったのは「発明した」ではなく「発見した」だった。1905年、米紙のインタビューで、14年前にハイボールを見つけたのだと語っている。ニューヨークのバーで、背の高いグラスにスコッチと炭酸を求めた——という筋書きだ。
ただし、この手柄を主張したのは彼だけではない。バーテンダーのパトリック・ギャヴィン・ダフィーは1934年の著書で「アメリカにハイボールを最初に持ち込んだのは私だ、1895年のことだ」と書き、同時にボストンのパーカーハウスも同じ主張をしていたと認めている。ボストンのアダムスハウスもまた、自分たちが発祥だと唱えた。
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