なぜ英国最高峰のふもとのスコッチ蒸溜所を、日本のニッカが持っているのか——竹鶴政孝の没後10年に起きた逆転
英国最高峰ベン・ネヴィス山のふもとに建つスコッチの蒸溜所は、日本のニッカウヰスキーが所有している。1825年の創業から、早すぎた商標売却、密輸業者が持ち込んだ実験、二度の操業停止、そして竹鶴政孝の没後10年に起きた買収まで。
日本のウイスキーは長いあいだ、「スコッチに追いつき追い越せ」を合言葉に造られてきた。その物語の主役である竹鶴政孝は、スコットランドで製法を学び、二冊のノートに書き写して持ち帰った人である。
ところが今、英国最高峰ベン・ネヴィス山のふもとに建つ蒸溜所の持ち主は、日本のニッカウヰスキーだ。学びに行った側が、教わった土地の蒸溜所そのものを持っている。この逆転は、どうして起きたのか。
「ロング・ジョン」が山のふもとに建てた蒸溜所
ベン・ネヴィス蒸溜所の創業は1825年。建てたのはジョン・マクドナルドという人物で、身長6フィート4インチ(約193cm)の偉丈夫だったことから「ロング・ジョン」と呼ばれた。
蒸溜所が立つのは、スコットランド西ハイランドの町フォート・ウィリアム。町の背後にそびえるベン・ネヴィス山は標高約1,345mで、英国でいちばん高い。仕込み水は、山腹の二つの圏谷(コイレ・レイスとコイレ・ナ・システ)に湧く水を集めたオルト・ナ・ヴーリンから引かれる。雪解け水と雨が岩を伝って落ちてくる、文字どおり「山の水」である。
19世紀のうちに、この蒸溜所は「ロング・ジョンズ・デュー・オブ・ベン・ネヴィス」という、シングルモルトとしてはごく早い時期のブランドを世に出していた。ところが創業者の孫たちは、宣伝力にものを言わせるブレンデッド全盛の市場で単一蒸溜所の酒を売ることに疲れたのだという。1911年、「ロング・ジョン」の商標はロンドンの酒商W・H・チャップリン社へ売られていく。名前だけが世界に広がり、蒸溜所の手からは離れてしまった。
密輸から牧場まで渡り歩いた男が持ち込んだ実験
この蒸溜所の歴史を面白くしているのが、1955年に経営を握ったジョセフ・ホッブスだ。海運業で成功し、禁酒法下のアメリカへ酒を運んだ密輸業者でもあり、スコットランドで大規模な牧場も経営した——という、絵に描いたような山師である。
彼はここにカフェスチル(連続式蒸溜機)を据えた。単式蒸溜のモルトウイスキーと、連続式蒸溜のグレーンウイスキーを、同じ敷地で同時に造れるようにしたのだ。ホッブスはさらに、両方を蒸溜したての段階から混ぜて詰め、長い年月をかけて樽の中でなじませる「生まれたときからのブレンド」を試みた。このカフェスチルは1981年まで敷地に残っていた。
ニッカもまた、いまや希少になったカフェスチルを使い続ける会社である。のちの縁を思うと、味わい深い符合ではある。
70年代末から80年代、蒸溜所は二度沈黙した
だがベン・ネヴィスの20世紀後半は平坦ではない。1978年に生産が止まり、1981年にはウィットブレッドが買収(同社の酒類部門はのちにロング・ジョン・インターナショナルと名を変える)。1984年にいったん再開したものの、世界的なウイスキー不況のなか1986年にふたたび止まってしまう。
閉鎖された蒸溜所が、そのまま解体されて消えていった時代である。ベン・ネヴィスも、あと数年遅ければどうなっていたか分からない。
政孝の没後10年、養子が父の追った土地の蒸溜所を継いだ
1989年、その蒸溜所をニッカウヰスキーが取得する。翌1990年に生産が再開され、1991年にはビジターセンターが開かれた。
竹鶴政孝は、買収の10年前にあたる1979年にすでに世を去っている。1918年にスコットランドへ渡り、グラスゴーで学び、実習の記録を抱えて帰国したその人は、自分の会社がスコットランドの蒸溜所を買う日を見ていない。
買収と再稼働で陣頭指揮を執ったのは、竹鶴威(1924–2014)である。政孝の姉・延代の四男、つまり甥にあたり、1943年に政孝の養子となった。ニッカの二代目マスターブレンダーとして余市と宮城峡の酒質を長く見てきた人物で、買収当時はニッカの社長、1990年からは会長を務めている。のちにはベン・ネヴィス蒸溜所の会長も引き受けた。休止したままだった設備を刷新し、ビジターセンターを立ち上げたのもこの人である。
養父が生涯かけて追いかけた相手の土地で、止まった火を入れ直す——そういう役回りが、この人に回ってきた。
「重い」ベン・ネヴィスという味
肝心の中身はというと、ベン・ネヴィスは軽やかなハイランドモルトとは対極にある。オイリーで蝋のような質感、そして濃く煮詰めたドライフルーツのような密度。愛好家が「重い」「無骨」と評しながら偏愛する、独特の酒質である。
現行の主力は10年で、度数は46%。冷却濾過をせず、着色もしない仕様で、その分だけ舌に残る厚みがある。
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