なぜ禁酒法時代のアメリカでウイスキーは「薬局」で売られていたのか
酒が憲法で禁じられた禁酒法の13年間、ウイスキーを合法的に手に入れる道がひとつだけあった——医師の処方箋を持って薬局へ行くことだ。「酒=薬」という古い信仰、処方箋一枚で買えた一パイント、そして薬局チェーンと蒸留所を潤した「例外」まで、禁じることの難しさを読み解く。
禁酒法時代のアメリカ——酒の製造・販売・輸送が憲法で禁じられていたこの13年間に、ウイスキーを堂々と、しかも合法的に手に入れる方法がひとつだけあった。医師の処方箋を持って、街の薬局(ドラッグストア)へ行くことである。棚の奥から出てきたのは、ラベルに「医療用(Medicinal)」と記された本物のウイスキーだった。なぜ「酒を禁じた国」で、薬局がウイスキーを売っていたのか。
「命の水」という古い信仰
そもそもウイスキーは、長らく薬として扱われてきた歴史を持つ。語源とされるゲール語の「ウシュク・ベーハ」が「命の水」を意味することはよく知られているが、実際に近代まで、蒸留酒は消化を助け、体を温め、痛みを和らげる万能薬のように処方されてきた。19世紀のアメリカでも、風邪や心臓の不調にウイスキーを勧める医師は珍しくなかった。
この「酒=薬」という古い観念が、禁酒法のなかにひとつの抜け穴として残された。酒の製造・販売・輸送を禁じたのは憲法修正第18条だが、それを実際に取り締まる連邦法として1920年に施行されたのがボルステッド法である。この法律は飲用の酒を禁じる一方で、医師が処方する「医療目的」のアルコールだけは例外としたのだ。
処方箋一枚で買えた一パイント
抜け穴とはいえ、手続きは形式上きちんと定められていた。医師は財務省の許可を得たうえで専用の処方箋にサインし、患者は10日間につき最大1パイント(約473ml)までのウイスキーを薬局で受け取れた。処方箋の使い回しを防ぐため、再処方(リフィル)は禁じられ、薬剤師は調剤と同時に日付を記入して無効化する決まりだった。
安くはなかった。診断料として医師に約3ドル、さらに薬局に約3ドル——現在の価値でそれぞれ数十ドルに相当する。それでも「合法の一杯」を求める人は後を絶たず、1920年代を通じて医療用ウイスキーを求める「患者」は膨れ上がっていった。処方箋が乱発され、本来意図された量をはるかに超えるウイスキーが倉庫から市場へ流れ出たと記録されている。医学的な裏づけが当時から乏しかったことを思えば、これは治療というより、体裁を借りた合法的な飲酒だった。
薬局チェーンと蒸留所を潤した「例外」
この制度で潤ったのは、飲み手だけではない。シカゴの薬局チェーン、ウォルグリーンは1920年代に店舗数を大きく伸ばした。医療用アルコールがその成長をどこまで後押ししたかは諸説あり、会社自身は経営手腕や商品戦略によるものと説明しているが、時代背景と無関係ではなかったと見る向きは多い。
蒸留所の側にも変化が起きた。政府は各地に散らばる在庫を管理しきれないと考え、ウイスキーを特定の倉庫に集約させ、医療用として瓶詰めできる業者を限られた数に絞った。ケンタッキーだけを見れば「わずか数社が生き延びた」と語られることが多いが、実際にはペンシルベニアやメリーランドでも医療用ウイスキーは造られており、「6社だけ」という通説はやや単純化された物言いだ。いずれにせよ、この例外を足がかりに在庫と販路を握った企業は、1933年の禁酒法撤廃後にいち早く市場へ復帰する強みを得た。
現代のバーの棚に並ぶ歴史あるバーボンやライの銘柄のなかには、この医療用の枠組みのおかげで暗黒時代を生き延びたものがある。禁酒法という逆風のなかで名前を保ち続けたことが、今日まで途切れない歴史につながっている。
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