なぜトリスは戦後から今も「日本人の最初のウイスキー」であり続けるのか——「うまい、やすい」と、アンクルトリスの時代
1946年、焼け跡の日本に「うまい、やすい」の合言葉で生まれたトリス。トリスバー、アンクルトリス、名コピーライターたち——背伸びしない一杯が、なぜ約80年も日本のウイスキーの入口であり続けるのかを読み解く。
戦後の日本で、ウイスキーはまだ「舶来の高級品」だった。そんな時代に「うまい、やすい」を合言葉に庶民の手元へ降りてきた一本がある。トリスだ。1946年の誕生から約80年、トリスは値段でも味でも「最初の一本」であり続けてきた。この記事では、なぜトリスが日本人にとって“ウイスキーの入口”になり得たのか、その誕生と広告文化、そして今の姿までをたどる。
「うまい、やすい」——焼け跡から生まれた大衆ウイスキー
トリスウイスキーが本格的に世に出たのは1946年(昭和21年)、寿屋(現サントリー)の手による。実は「トリス」という名前自体はもっと古く、1919年(大正8年)に最初の「トリスウヰスキー」が売られている。ただしこれは果実酒を原料にしたもので、いまの分類ではウイスキーというよりブランデーに近い製品だった。ブランド名は創業者・鳥井信治郎の名前に由来し、「鳥井の(Torys)」という意味だとされる。
戦後の混乱期、街には出どころの怪しい粗悪な酒が出回っていた。寿屋が目指したのは「きちんとした品質のものを、手の届く値段で」。1950年頃には「うまい」「やすい」というシンプルな売り文句とともに広まり、トリスは背伸びしなくても飲める大衆ウイスキーの代名詞になっていく。
トリスバーと『洋酒天国』——酒場が広げた文化
トリスを語るうえで外せないのが「トリスバー」だ。気軽な値段で洋酒が飲める庶民の酒場として、1950年代後半から1960年代にかけて全国へ広がった。高級なバーではなく、サラリーマンが仕事帰りに一杯ひっかける——そんな日常の風景の中に、ウイスキーが溶け込んでいった。
寿屋はこの流れを、広告でも後押しした。1956年に創刊されたPR誌『洋酒天国』は、トリスバーの常連たちに配られた遊び心たっぷりの小冊子で、1964年の休刊まで洋酒文化の裾野を耕した。酒を売るだけでなく、「洋酒のある暮らし」そのものを提案したのである。
アンクルトリスと、名コピーを書いた作家たち
トリスの親しみやすさを決定づけたのが、広告だ。1958年(昭和33年)に広告へ初登場したキャラクター「アンクルトリス」は、寿屋宣伝部の柳原良平が造形を手がけたもので、どこにでもいそうな中年男性をユーモラスに描き、戦後の酒類広告でもっとも知られた顔のひとつになった。
この宣伝部には、のちに作家として大成する開高健や山口瞳が机を並べていた。山口が1958年に寿屋へ入ったのは、当時『洋酒天国』の編集長だった開高の推薦だったという。1961年のコピー「『人間』らしくやりたいナ トリスを飲んで『人間』らしくやりたいナ」は、戦後広告史に残る名文句として知られる。
このコラムの関連
次に読む

なぜ宮城峡は、力強い余市の「対」として生まれた「やわらかな」シングルモルトなのか——霧の谷と、スチームで焚くスチル
北海道・余市の力強さの陰で、宮城峡はなぜ「やわらか」で愛されるのか。竹鶴政孝が二つ目にあえて選んだ霧の谷、スチームで焚くスチル、そしてカフェスチルが生む多彩な原酒から、「もう一つのニッカ」の魅力を読み解く。

なぜバランタインは「完璧なブレンド」と称えられるのか——食料品店から始まり、紋章に四大元素を刻んだ物語
スーパーの定番ファイネストから、憧れの17年・30年まで。1827年の食料品店から世界2位のスコッチへ上りつめたバランタイン。約50のモルトを束ねる「完璧なブレンド」と、紋章に刻んだ四大元素の物語を読み解く。






