なぜウイスキーは「男の酒」になったのか——蒸留所を支えた、名前の残らなかった女性たち
ウイスキーにつきまとう「男の酒」というイメージ。だが酒づくりはもともと家の仕事で、密造用のスチルを買い、蒸留所を建て直し、アイラを世界へ売ったのは女性たちでもあった。「紳士の酒」は、それほど古い顔ではない。
「男の酒」というイメージは、どこから来たのか
バーカウンターの琥珀色、映画で葉巻とともに傾けられるグラス、父の日の広告。ウイスキーには「男の酒」という手垢のついたイメージが、いまだにまとわりついている。
だが歴史をたどると、この酒が男だけのものだった時代は、じつは一度もない。女性がそこにいることは、珍しくもなかった。ただ、名前が記録に残りにくかっただけだ。
そもそも、酒づくりは「家の仕事」だった
産業になる前、醸造と蒸留は家事の一部だった。男たちが畑や海へ出ていくあいだ、家に残って炊事とともに酒を仕込むのは、しばしば女性の役目だった。醸造を担った女性たちは、イングランドでは「エールワイフ(alewife)」、スコットランドでは「ブリュースター(brewster)」と呼ばれた。1499年のエディンバラでは、110人ものブリュースターが罰金を科された記録が残っている。
これは「ウイスキーが女性の酒だった」という話ではない。酒づくりが職業ではなく家事だったから、家事を担う人が造っていた、という話だ。
転機は商業化である。たとえばエディンバラでは1596年に醸造業者の団体が生まれ、規制が整い、儲かる商売になっていく。そして商売になった途端、担い手は男性中心に置き換わっていった。
密造の時代、スチルを買っていたのは誰か
それでも女性が消えたわけではない。舞台が、合法の外へ移っただけだ。
1800年代初頭、キャンベルタウンの銅細工師ロバート・アーマーは、密造用の小型ポットスチルを作り、修理していた。彼が残した帳簿の顧客のうち、5分の1以上が女性だったという。密造という危ない橋を、女性たちが自分の名前で渡っていたということである。
スペイサイドのカーデュ蒸留所も、その世界から始まっている。ジョン・カミングとその妻ヘレンは、農場のかたわらで密造ウイスキーを造っていた。日々の実務を回していたのはヘレンだったという。
そして彼女には、こんな逸話が残る。収税吏がやってくると、腕に小麦粉をまぶしてパンを焼いているふりをし、彼らを家に上げてもてなす。その隙に裏手へ回り、赤い旗を揚げて近隣の密造者たちへ危険を知らせた——(語り継がれてきた話で、細部の裏づけがあるわけではない)。
カーデュが免許を取り、合法の蒸留所になるのは1824年のことだ。
記録に残ったのは、夫や息子の名だった
19世紀、密造から合法へと産業が組み替えられていく過程で、帳簿や免許に記されるのは世帯主=夫や息子の名前だった。だから記録の上では、女性は「いなかった」ことになる。
カーデュで確かな記録が残るのは、ヘレンの嫁にあたるエリザベス・カミングだ。彼女は1885年に隣接地へ蒸留所を建て直し、生産量を約3倍に引き上げた。このとき手放した古いスチルを買ったのが、のちにグレンフィディックを創業するウィリアム・グラントである。
そして1893年、エリザベスはカーデュをジョン・ウォーカー&サンズへ売却する。ただし「カミング家が引き続き現場を運営する」という条件つきで、代金2万500ポンドに加えて自社株と、息子の取締役ポストまで引き出した。買い叩かれた未亡人ではない。交渉して勝ち取った経営者の姿がここにある。
ラフロイグを守り、アイラを世界へ売った女性
20世紀にはベッシー・ウィリアムソンがいる。1934年、彼女は速記タイピストとしてラフロイグにやってきた。ひと夏の臨時職のはずだったが、結局この島で半世紀近くを過ごすことになる。
オーナーのイアン・ハンターが脳卒中で倒れると、彼女は経営を代行した。そして1954年、ハンターの死とともに蒸留所そのものを引き継ぐ。20世紀のスコッチ業界で、蒸留所を所有し経営した最初の女性とされる人物だ。
彼女の功績は「守った」ことだけではない。1960年代にはスコッチウイスキー協会の招きで北米を繰り返し巡り、スコッチの造りを講義して回りながら、シングルモルトを、とりわけアイラの煙を売り込んだ。いま私たちがラフロイグのあの薬品めいた一杯を当たり前に手に取れる背景には、彼女の営業の足跡がある。

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