サントリーとニッカは何が違うのか——日本のウイスキーを二分する二社の成り立ちと代表銘柄
山崎も響もサントリー、竹鶴も余市もニッカ。同じ蒸溜所から袂を分かった二人の創業者の物語、「どっちが古い?」の答え、グレーンに表れる思想の差、そして角瓶とブラックニッカの選び分けまで、二社の違いをまるごと読み解く。
日本のウイスキー売り場を見渡すと、驚くほど多くの銘柄が「サントリー」か「ニッカ」のどちらかにたどり着く。山崎も白州も響も角瓶もサントリー。竹鶴もブラックニッカも余市も宮城峡もニッカ。国産ウイスキーを二分するこの二社は、なぜこれほど個性が違うのか。この記事では、二人の創業者の物語から、「どっちが古いのか」という素朴な疑問、造りの流儀、毎日の一杯を支える定番の違い、そして資本の「いま」まで、両社の違いをまるごと読み解く。
すべては一つの蒸溜所から始まった
意外なことに、両社の源流は同じ場所にある。1923年、洋酒商・寿屋(ことぶきや、のちのサントリー)を率いる鳥井信治郎が、大阪・山崎で日本初の本格的なモルトウイスキー蒸溜所の建設に着手した。翌1924年に竣工したこの蒸溜所の初代所長を務めたのが、若き技師・竹鶴政孝である。
竹鶴は寿屋に入る前、摂津酒造の社員として1918年にスコットランドへ渡り、グラスゴー大学で化学を学び、ロングモーンやヘーゼルバーンの蒸溜所で現場を経験して1920年に帰国していた。本場の造りを自らの手で書き留めて持ち帰った、日本人の草分けである。ところが摂津酒造のウイスキー計画は第一次世界大戦後の恐慌で頓挫し、竹鶴は会社を去る。その知識を買って迎え入れたのが鳥井だった。
つまり二人は、かつて同じ蒸溜所に集った「同志」だった。だが理想は少しずつ分かれていく。竹鶴が思い描いていたのは、本場スコットランドに近い冷涼な気候での酒造りである。1934年3月に寿屋を退社すると、同年7月に大日本果汁株式会社を設立し、北海道・余市に自らの蒸溜所を築いた。社名を縮めた「日果(ニッカ)」が、のちのニッカウヰスキーになる。NHK連続テレビ小説『マッサン』で描かれた、竹鶴と妻リタの物語がこれである。一つの蒸溜所から二つの巨大な流れが生まれた——ここが日本ウイスキー史の分岐点だ。
「どっちが古い?」——物差しは三つある
よく聞かれる問いだが、何を数えるかで見え方が変わる。
会社の創業で見れば、サントリーが圧倒的に古い。鳥井信治郎が大阪で鳥井商店を開いたのは1899年。これが寿屋を経て、1963年にサントリー株式会社となった。対するニッカの前身・大日本果汁の設立は1934年、社名がニッカウヰスキーに変わるのは1952年である。
ウイスキーが世に出た順でも、順番は動かない。寿屋が国産初の本格ウイスキー「白札」を発売したのは1929年。一方の余市でウイスキーの蒸溜が始まったのは1936年で、熟成を待つあいだ大日本果汁はリンゴジュース(1935年発売の「ニッカ林檎汁」)で会社を支え、ウイスキー第1号を売り出せたのは1940年だった。ウイスキーの会社が「果汁」を社名に掲げねばならなかったこと自体が、その歳月の重さを物語っている。
本場の知識という三つ目の物差しだけは、比べる対象が会社ではなく人になる。スコットランドで蒸溜を学んで日本へ持ち帰ったのは竹鶴であり、それは山崎の着工より前、1918年から1920年にかけての出来事だった。会社としてはサントリーが先輩、しかし技術の源流を運んできたのはニッカの創業者——この入れ子構造こそが、二社の関係をややこしく、そして面白くしている。
サントリー——「日本人の味覚」に寄せる流儀
鳥井信治郎の口ぐせは「やってみなはれ」。彼が目指したのは、スコッチの模倣ではなく、日本人の繊細な味覚に合うウイスキーだった。1929年に白札を、1937年には今も続く「角瓶」を、そして戦後の1946年には手の届く価格の「トリス」を世に送り出し、ウイスキーを一部の愛好家のものから日常の酒へと押し広げていく。
造りの面では、山崎蒸溜所(モルト)、白州蒸溜所(1973年稼働、モルト)、知多蒸溜所(1973年稼働、グレーン。JAとの共同出資会社が運営する)と、性格の異なる拠点を抱えるのが強みだ。ひとつの蒸溜所の中でも形の違うポットスチルを並べ、多彩な原酒を造り分ける。全体に華やかで口当たりがやわらかく、ミズナラ樽由来の白檀を思わせる和の香りに象徴されるように、繊細さと調和を重んじる作風である。

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