なぜ二度の大戦で、ウイスキーは造れなくなったのか——穀物を奪われた蒸溜所と、チャーチルの一行
二つの大戦で、スコットランドではウイスキーの蒸留が止まり、第二次大戦下のアメリカでは蒸溜所が魚雷の燃料を造った。日本では大日本果汁(現ニッカ)が海軍の監督工場になる。ウイスキーが戦争に弱い理由と、樽に残った「空白の年」の話。
戦争の記録にウイスキーが出てくることは、あまりない。けれど蒸溜所の年表をたどると、二つの大戦のところで判で押したように同じ言葉が並ぶ。「休止」「閉鎖」「再開」。
なぜ大戦が始まると、ウイスキーは造れなくなるのか。そして、それでも造り続けた蒸溜所は何を造っていたのか。英国・アメリカ・日本の三つの現場をたどりながら、樽に残った「空白の年」の話をする。
ウイスキーは、パンと同じ畑からできている
答えの半分は、原料にある。
ウイスキーの原料は大麦、トウモロコシ、ライ麦、小麦。どれも人間の食糧になる穀物だ。平時なら余剰を酒に回せるが、働き手が兵にとられ、輸送船が沈められ、配給が始まった国で、真っ先に削られるのは「食べずに飲むための穀物」になる。
ウイスキーが戦争に弱いのは、贅沢品だからというより、パンと同じ畑からできているからだ。そしてもう半分の理由が、熟成という時間にある。造れなかった年は、その年のうちには誰も困らない。困るのは十数年後だ。
第一次大戦——1917年、モルトの蒸留が止まる
第一次大戦は、いまのスコッチのかたちを決めた戦争でもあった。
1915年の未熟成スピリッツ制限法(Immature Spirits (Restriction) Act 1915)は、国内向けに出荷するスピリッツに熟成期間の下限を設けた。施行当初こそ経過措置で2年が認められたが、その後は3年に一本化される。今日のスコッチが「最低3年」で定義される起点は、この戦時立法にある(→なぜウイスキーには「最低3年」の熟成義務があるのか)。
さらに1916年の不作と、1917年にドイツが踏み切った無制限潜水艦作戦が、英国の穀物事情を直撃した。1917年6月、ポットスチルによるモルトウイスキーの蒸留が全面的に禁止される。再開は1919年。およそ二年、スコットランドの多くの蒸溜所は静まり返っていた(連続式蒸留のグレーンウイスキーは、規模を落としながら続いていた)。
第二次大戦——チャーチルの一行
第二次大戦では、事態はさらに深刻になる。1940年ごろから穀物は食糧へ優先的に回され、1942年の秋までにウイスキーの蒸留はほぼ全面的に止まった。設備そのものは工業用アルコールの製造や穀物の保管、軍の施設として使われたが、新しい原酒はほとんど生まれなかった。
それでも樽の中には、戦前に仕込まれた在庫があった。そしてスコッチは、英国がアメリカから戦時物資を買うためのドルを稼ぐ輸出品でもあった。造れなくても、売れる限りは売る。ウイスキーは国の勘定に直結していたのである。
限られた穀物が蒸溜所に再び配分されはじめるのは1944年のこと。そして戦争が終わろうとする1945年5月、チャーチルは首相メモにこう書き残している。
On no account reduce the barley for whisky. This takes years to mature, and is an invaluable export and dollar producer. … (拙訳・抜粋:ウイスキー用の大麦は決して減らすな。熟成には何年もかかる。これはかけがえのない輸出品であり、ドルを稼ぐものだ)
いま仕込まなければ十数年後に売るものがない——熟成という時間の性質を踏まえた判断だった。
もっとも、蛇口はすぐには開かない。1945年の原料供給は戦前の4割程度にとどまり、穀物割当の制限が解かれたのは1954年1月のことだった。
アメリカ——蒸溜所は魚雷の燃料を造っていた
大西洋の向こうでは、もっと直接的なことが起きていた。
1942年11月、戦時生産局(War Production Board)が飲用アルコールの製造停止を命じる。ケンタッキーやテネシーの蒸溜所は設備を改修し、工業用アルコールの生産へ切り替えた。用途は、魚雷の燃料、合成ゴム、無煙火薬、医薬品、プラスチック——軍需そのものである。転換に投資できなかった小さな蒸溜所は、そのまま姿を消した。
店に並んだのは、戦前に仕込まれ、樽で眠っていた在庫だった。開戦時の在庫は数年分あったとされ、品薄はすぐには来ない。それでも在庫が細るにつれて値は上がっていった。
造り手たちは政府に働きかけ、軍需生産を一時中断して飲用のアルコールを仕込める期間を勝ち取る。「distilling holiday(蒸留のための休暇)」と呼ばれたこの措置は、一か月ほどの期間が数度認められたにすぎず、しかもそこで造られたものの多くはニュートラルスピリッツだったとも伝えられる。バーボンの空白は、戦後しばらく尾を引いた。
日本——海軍の監督工場になった余市
日本にも、同じころの話がある。
1940年、大日本果汁(現在のニッカウヰスキー)が最初のウイスキーを世に出した直後、ウイスキーは統制品となり、同社は海軍の監督工場となった。英国からのスコッチの輸入が途絶えたことで、国産ウイスキーへの需要はむしろ高まっていたのである。将校への配給用の酒を造るため、原料は優先的に割り当てられた。
余市町の記録によれば、ウイスキーの主な納入先は小樽にあった陸軍輸送部の船舶部隊(通称・暁部隊)で、アリューシャン列島へ出撃する部隊からの注文で缶入りのウイスキーを造ったこともあったという。
民間の嗜好品として守られたのではない。軍の需品として残された、という言い方のほうが近い。そしてその蒸溜所は、いまも同じ場所で稼働している。
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