なぜアラン島は、150年以上も途絶えたウイスキーを取り戻せたのか——イヌワシに工事を止められた蒸溜所と、450ポンドを出した人々
スコッチの多くが二百年前の創業年を誇るなか、アランのラベルにあるのは1995年。かつて五十の蒸溜所があったとされる島から、なぜウイスキーは150年以上も消えていたのか。建築家の何気ない一言、450ポンドの債券、イヌワシに止められた工事——ロッホランザとラッグ、二軒の物語を読み解く。
スコッチのボトルには、たいてい古い数字が刻まれている。創業1824年、1798年、1608年。何世代も続いてきたことが、そのまま価値の証明になる世界だ。
そのなかで、アランのラベルに書かれている数字は1995年である。二百年前ではない。三十年前だ。
しかもこの島は、ウイスキーと縁が薄かったわけではない。むしろ逆で、かつては島じゅうが酒を造っていた。それが150年以上にわたって、一滴も合法的に造られない土地になった。
この記事では、その空白がどうして生まれ、誰がどうやって埋めたのかをたどる。登場するのは、夕食の席で思いつきを口にした建築家と、それを本気にした引退済みの元役員と、450ポンドを出した見知らぬ人々と、工事を止めた一つがいのイヌワシである。
かつて島には、五十の蒸溜所があったという
アラン島は、グラスゴーから日帰りできる距離にある。クライド湾に浮かび、北の山と南のなだらかな牧草地が一つの島に同居しているため、「スコットランドの縮図」と呼ばれることがある。産地としてはアイランズ——法律上の区分にはない、島々をまとめた通称の産地に含まれる。
この島にはかつて、五十ほどの蒸溜所があったと言われる。ただしその大半は、税を逃れた密造だった。本土からほどよく離れ、入り組んだ入江と山を持つ島は、酒税官の目から逃れるにはうってつけだったのだ。
合法的に登録された蒸溜所も存在した。島の南、ラッグという集落にあった蒸溜所である。だがそれも閉じてしまう。閉鎖の年は資料によって割れていて、1837年とするもの、蒸溜所自身の年表のように1840年とするもの、「1836年以来、島に合法的な蒸溜はなかった」と最終蒸溜の年で数えるものがある。いずれにせよ、1830年代の終わりから1840年ごろにかけて、アラン島からウイスキーは消えた。
以後、150年以上。島は羊と登山客の島になった。
夕食の席で出た、ひとつの思いつき
再開の話は、1991年の食卓から始まる。
その食卓の主が、ハロルド・カリーという人物だった。ノルマンディー戦に従軍し、戦後は酒類の世界に入って、1960年にシーグラムの英国法人へ移る。その後シーバス・ブラザーズで経営責任者を務め、さらにペルノ・リカールの英国事業のトップとして「ハウス・オブ・キャンベル」のブランド展開を率いた。スコッチ産業の中枢を歩き、1982年に一度は引退していた人である。
言い出したのは、カリーではない。友人の建築家デイビッド・ハッチソンが、カリー宅での夕食の席で、アラン島に蒸溜所を建てたらどうかと何気なく口にしたのだ。
夕食の席の思いつきは、たいてい翌朝には消える。だがこのときは消えなかった。カリーは本気で検討を始め、同じ1991年の11月、ハッチソンとともに「アイル・オブ・アラン・ディスティラーズ」を設立する。引退から、すでに九年が経っていた。
問題は、金だった。
450ポンドの「債券」を、見知らぬ人々が買った
大手の資本を頼らずに蒸溜所を建てるには、資金をどこかから集めなければならない。新会社が用意したのは、ボンドホルダー(債券保有者)制度だった。
仕組みは単純である。1口450ポンドを出資すると、将来この蒸溜所のウイスキーを有利な条件で買う権利が手に入る。まだ一滴も蒸溜していない、味も分からない酒の引換券を、先に売ったわけだ。
役割はきれいに分かれた。ハッチソンが蒸溜所の設計を詰め、カリーは息子のポールとアンドリューとともに制度の設計と資金集めに回り、業界の人脈をたどって出資者を探した。
集まったのは、ボンドホルダーから64万ポンド、民間投資家から86万1,000ポンド、主要株主から20万ポンドで、合計170万ポンドあまり。蒸溜所は、大企業の投資判断だけでなく、「アラン島のウイスキーを飲んでみたい」と思った個人の財布からも建てられたことになる。
イヌワシに、工事を二か月止められた
着工は1994年12月16日。だが翌春、思わぬ足止めを食らう。
蒸溜所を見下ろす丘の岩場に、イヌワシのつがいが巣を作ったのだ。イヌワシは英国で法的に保護された種で、営巣中の妨害は許されない。工事は雛が巣立つまで止まった。蒸溜所自身の年表もこの中断を記しており、期間はおよそ二か月だったと伝えられる。
造ろうとしていたのは、島の自然を売り物にする蒸溜所である。その建設が、島の自然そのものによって止められた。出来すぎた話に見えるが、記録に残っている出来事だ。
工事は再開し、1995年6月24日に最初の仕込み、6月29日に最初の蒸溜が行われる。翌週には最初の樽が満たされた。正式なオープンは同年8月17日。1997年8月9日には、エリザベス2世がビジターセンターを開所している。
そして1998年7月25日、最初の樽が開けられた。栓を抜く役を務めたのは、スコットランド出身の俳優ユアン・マクレガーである。蒸溜所の年表はこの日を「160年以上ぶりの、アランの合法的な一杯」と記している。
島の顔になった一本
現在のアランは、ピートを焚かない、果実味を軸にしたモルトとして知られている。看板の10年は、ファーストフィルのバーボンバレルを主体にシェリーホグスヘッドを組み合わせ、46度・ノンチルフィルター・無着色で瓶詰めされる。多くの定番が40度前後まで加水して出すなかで46度を選び、冷却濾過もかけない——飲み口の軽さより、樽から出てきたままの情報量を優先した設計と受け取れる。
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