なぜスコットランドでは、詩人の誕生日にウイスキーで乾杯するのか——「蛍の光」の原曲を残した男は、酒の税を取り立てる側になった
1月25日のバーンズ・ナイト。ハギスに詩を捧げ、ウイスキーで乾杯し、最後は「蛍の光」でお開きにする。その原曲を世に出した詩人ロバート・バーンズは、のちに酒の税を取り立てる酒税官になった人だった。
1月25日の夜、スコットランドでは同じ料理が同じ順番で運ばれ、同じ詩が読み上げられ、最後に全員で同じ歌をうたう。
その歌は、日本人なら誰でも知っている。「蛍の光」である。
スコットランドの人々が、詩人ひとりの誕生日に集まって、ハギスにナイフを入れ、ウイスキーで乾杯し、「蛍の光」で夜を閉じる。この奇妙に整った習わしは、どこから来たのか。そして、その詩人はウイスキーにとって何者だったのか。追っていくと、皮肉としか言いようのない一点に行き当たる。彼は、ウイスキーを讃える詩を書き、そのうえで酒に税をかける側の役人になった人だった。
「蛍の光」の原曲は、別れの歌である前に、酒と再会の歌だった
原曲は〈オールド・ラング・サイン(Auld Lang Syne)〉。スコットランド語で「old long since」、日本語にするなら「久しき昔」あたりだ。
ロバート・バーンズ(1759–1796)の名で伝わっている。ただし彼自身は「作った」とは言っていない。
この歌が記録に現れる最初は1788年12月7日、友人ダンロップ夫人への手紙で「Auld lang syne というスコットランド語は、実に言い得て妙ではないか」と書いたときだ。のちに出版者ジョージ・トムソンへ宛てた手紙では、こう書き添えている——「これは古い歌、いにしえの時代のもので、印刷されたことも、写本にすらなったこともない。私が老人の歌うのを書き取るまでは」。
つまりバーンズは、作者ではなく採集者として名乗り出た。もっとも、歌謡集の編者ジョンソンには「5つの連のうち伝承なのは3つで、残る2つは自分が書いた」と認めている。拾ってきた歌に、自分の手を入れた——それが実態に近い。歌が『スコッツ・ミュージカル・ミュージアム』に載ったのは、彼が没した1796年の第5巻でのことだった。
しかも、いま世界中でうたわれているあの旋律すら、彼が最初に付けたものではない。現行の五音音階の旋律の初出は、1799年に出たジョージ・トムソンの歌曲集『A Select Collection of Original Scotish Airs』第2巻とされる。
そして中身は、しんみりした別れの歌というより酒の歌だ。旧友と再会し、「親愛の一杯(a cup o' kindness)」を酌み交わそう、という一節が繰り返される。年の変わり目のホグマネイでうたわれるのも、この歌が「過ぎた日を肴に、いま一緒に飲む」歌だからである。
日本語詞になったとき、この杯は消えた。1881年(明治14年)11月、文部省の『小学唱歌集』初編に「蛍の光」として収録される。作詞は国学者の稲垣千穎(いながき ちかい。俗字で「千頴」とも表記される)。冒頭の「蛍の光、窓の雪」は中国の故事「蛍雪の功」で、勉学に励む歌になっている。原詞の再会と酒杯は、そっくり別のものに入れ替わった。
だから、こう言える。日本人が卒業式でうたっているあの歌は、本国ではウイスキーの夜の締めくくりにうたわれている。
「自由とウイスキーは、共に行く」
バーンズはウイスキーの歌をいくつも残した。
1782年の〈ジョン・バーリコーン(John Barleycorn)〉は、古くから伝わるバラッドをバーンズが書き直したものだ。大麦を「ジョン・バーリコーン」という男に見立て、彼は埋められ、膝から刈られ、棒で打たれ、水に浸けられ、炎で焼かれ、二つの石で挽き潰される——読んでいくと、大麦を発芽させて麦芽にする工程を含む、大麦が酒に変わるまでの道のりを、まるごと拷問の物語として語り直したものだと分かる。製法の解説が生まれるより前に、その工程は詩としてうたわれていたわけである。
1785〜86年ごろの〈スコッチ・ドリンク(Scotch Drink)〉は、故郷の酒への讃歌だ。そして同じ1786年、彼は明確に政治的な一篇を書いている。
〈下院のスコットランド選出議員に宛てた、作者の切なる叫びと祈り〉。長い題のこの詩は、その年のスコッチ蒸留法(Scotch Distillery Act)への抗議として書かれた。ロンドンのジン蒸留業者を守るために、イングランドへ出荷するスコットランド産スピリッツへ追加の課税をかけ、スチルの容量にも課税する——スコットランドの造り手にとっては商売を妨げる法だった。
詩の結びは、いまもスコッチの世界で引かれ続けている。
FREEDOM and WHISKY gang thegither, Tak aff your dram! (自由とウイスキーは、共に行く。さあ、その一杯を干せ)
当時のハイランドでは、課税を逃れた密造こそがウイスキーの主流だった。バーンズの怒りは、その空気の中にある。
そして詩人は、税を取る側になった
ここからが、この人物のいちばん人間くさいところである。
農業は、うまくいかなかった。父の農場を弟と支えきれず、転じたモスギール農場も軌道に乗らない。1788年、彼は**酒税官(exciseman/gauger=計量する官吏)**になるための訓練を受け、翌1789年に収税の職を得る。エリスランド農場で畑を耕しながら、税を測って回った。やがて農場を手放し、ダンフリーズの町へ移る。
1796年7月21日、彼はダンフリーズで37歳の生涯を閉じた。死因には諸説あり、長年のリウマチ性の心疾患や、細菌感染の可能性が指摘されている。最後の7年ほどを、彼は徴税吏として過ごしたことになる。
1786年に「自由とウイスキーは共に行く」と書いた男が、その3年後の1789年には、課税対象の量を測って税額を確定する側に立っていた。
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