なぜジャックダニエルは、蒸溜所の外ではその酒を買えない町で造られているのか——住民投票を通さないかぎりドライな郡と、1995年に開いた小さな窓
世界で最も売れているアメリカンウイスキーは、蒸留酒とワインの小売が認められていない「ドライカウンティ」で造られている。テネシーの郡が初期状態でドライである仕組みと、蒸溜所にだけ開かれた例外をたどる。
リンチバーグの蒸溜所を見学した人が、最後に立ち寄る売店がある。棚にはジャックダニエルの瓶が並び、レジで買って帰ることもできる。
だが、その敷地から一歩出ると話が変わる。この郡には、ウイスキーを売る酒屋が一軒もない。世界で最も売れているアメリカンウイスキーは、蒸溜所の外ではその酒を買えない土地で造られている。
人口6,461人の郡で、ウイスキーが買えるのは蒸溜所だけ
蒸溜所があるのはテネシー州ムーア郡リンチバーグ。2020年の国勢調査で人口6,461人、州で3番目に人口が少なく、面積では2番目に小さい郡だ。1988年には市と郡がひとつになり、「リンチバーグ・ムーア郡メトロポリタン政府」という統合自治体になった。
このムーア郡が、いわゆるドライカウンティ——蒸留酒とワインの小売が認められていない郡である。
ただし「一滴も飲めない町」ではない。テネシーの制度でドライ/ウェットが問われるのは主に蒸留酒とワインの小売で、ビールはこれとは別系統の扱いになる。ムーア郡でもビールは普通に買える。認められていないのは酒屋(パッケージストア)としての営業で、郡内にその免許を持つ店は存在しない。
造ることは合法。だが、造ったものを郡内の酒屋で売ることはできない。ねじれているのはこの一点だ。

州が禁じ、連邦が許しても、郡は動かなかった
話は禁酒法より前にさかのぼる。テネシー州は1910年に州として禁酒法を敷き、州内での合法的な蒸留の道を塞いだ。ジャックダニエルは蒸留の拠点をミズーリ州セントルイスとアラバマ州バーミングハムに移したが、そこで造られたものは品質の問題で結局売られなかったと伝えられる。
1933年、合衆国憲法修正第21条によって連邦の禁酒法は終わる。だがこの修正条項は、酒の扱いを州や地方の判断に委ねる書き方をしていた。連邦が禁じるのをやめただけで、州法はそのまま残る。テネシーが自州の禁酒法を解いたのは1938年。リンチバーグでの蒸留はそこでようやく再開した。連邦とのあいだに5年の空白があったことになる。第二次大戦中にも、蒸溜所は数年にわたって製造を止めている。
そしてテネシーの制度には、もうひとつ厄介な特徴がある。郡や市は、初期状態がドライなのだ。酒の小売を認めるには、住民投票(ローカル・オプション)を通して自分たちで法を書き換えなければならない。放っておけばドライのまま——何もしないことが、そのまま「売らない」という選択になる。
ムーア郡は、その住民投票を今日まで通していない。
「記念ボトル」という例外
とはいえ、世界中から観光客が来る蒸溜所の門前で、その酒だけが買えない状態がいつまでも続きはしなかった。
1994年、テネシー州議会が特別法を可決し、蒸溜所での記念ボトル販売が認められる。施行は1995年1月から。郡の法そのものを変えず、蒸溜所という一点にだけ窓を開けた形だ。当時の例外は「記念品を一度にひとつ」といった限定つきの、ごく細い窓だった。
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