なぜ日本のウイスキーは世界的評価を得たのか
本場スコッチの模倣として始まった日本のウイスキーが、なぜいま世界最高峰と称されるのか。二人の創業者、風土への翻訳、そして海外品評会での転機から、その理由を解き明かす。
かつて日本のウイスキーは、本場スコッチの「劣化コピー」と見なされた時代があった。ところがいまや、山崎や余市の名は世界の愛好家が奪い合うブランドになっている。なぜ極東の島国のウイスキーが、これほどの評価を勝ち取ったのか。歴史をたどりながら考えてみたい。
二人の父から始まった
日本のウイスキーは、しばしば二人の人物の名とともに語られる。一人は、スコットランドで蒸留を学んだ竹鶴政孝。もう一人は、その情熱に賭けた実業家・鳥井信治郎だ。
竹鶴は1918年に渡英し、翌1919年からロングモーンなどの蒸留所で実地に製法を学んだ。帰国後の1923年、鳥井が率いる寿屋(現サントリー)に迎えられ、京都郊外の山崎に日本初の本格モルトウイスキー蒸留所を築いた。のちに竹鶴は独立し、1934年に北海道・余市で自らの蒸留所を興す。これが現在のニッカウヰスキーの原点である。冷涼で霧の多い余市の風土は、スコットランドを思わせる土地として選ばれたと伝えられる。

「模倣」ではなく「翻訳」だった
日本のウイスキーが独自性を持ち得たのは、スコッチをそのまま真似したからではない。むしろ風土に合わせて作り替えた点にある。
たとえば熟成環境。日本はスコットランドより夏が暑く湿潤で、樽の中で酒が動く度合いも異なる。この気候の違いが、まろやかで熟成感の出やすい酒質を生んだとされる。加えて、日本特産のミズナラ(水楢)を樽材に用いる試みは、伽羅や白檀を思わせる独特の香りを生み、いまや「ジャパニーズ」を象徴する個性となった。単一の蒸留所内で多様な原酒を造り分け、それを緻密にブレンドする作り込みも、日本のもの作りらしい特徴だといえる。
転機は海外の品評会だった
評価が一変する決定的なきっかけは、海外からもたらされた。2001年、英ウイスキーマガジン誌の試飲企画で、ニッカの余市10年が「Best of the Best」に選ばれ、世界の専門家に衝撃を与えた。
さらに2014年、評論家ジム・マーレー氏の『ウイスキーバイブル2015』が、サントリーの山崎シェリーカスク2013を「ワールド・ウイスキー・オブ・ザ・イヤー」に選出。同書で日本のウイスキーが世界一に輝いたのは初めてで、その年のトップ5にスコッチが一本も入らなかったことも大きな話題となった。こうした「外からの評価」が、国内での再評価と世界的な需要を一気に押し上げたのである。

このコラムの関連
関連するボトル

次に読む

なぜバーボンは「新品の樽」しか使えないのか——一度きりのルールが世界のウイスキーを変えた
バーボンは法律で「新品の焦がしオーク樽」での熟成が義務づけられ、樽は一度きりの使い捨て。この一見不合理なルールが、じつは世界中のスコッチやジャパニーズの味を支えている。その理由を法規と樽の経済史からひもとく。

なぜハイボールは日本の「とりあえずの一杯」になったのか
居酒屋で「とりあえずハイボール」。かつて瀕死だったウイスキーを国民的な一杯へと押し上げたのは何だったのか。戦後の酒場文化と、2008年に仕掛けられた一大プロジェクトから、その理由を読み解く。

なぜウイスキーのラベルには「12年」と書かれ、そしていま消えつつあるのか
山崎12年、グレンフィディック12年——ラベルの数字は何を保証しているのか。実はこの「熟成年数表示」には厳格なルールがあり、そしていま多くの銘柄から姿を消しつつある。その理由を法規と市場の歴史から読み解く。






