なぜ酒売り場で「ニッカウヰスキー」だけが「ヰ」と書くのか——1946年に表記から外れた仮名と、「井戸の井」で登記しようとした社名
裏ラベルの製造者名は「ニッカウヰスキー株式会社」。1946年の「現代かなづかい」で表記から外れたはずの「ヰ」が、なぜ酒売り場ではこの一社にだけ残るのか。井戸の「井」で登記しようとした逸話と、法律の側が「ウイスキー」で固まった理由をたどる。
スーパーの酒売り場で、ニッカの瓶をひっくり返してみてほしい。裏ラベルの製造者の欄に「ニッカウヰスキー株式会社」と書かれている。「ウイスキー」ではなく「ウヰスキー」。スマホで打とうとすると一手間かかる、あの見慣れない文字が、日本を代表するウイスキー会社の名前には今も残っている。
古い印刷の名残でも、誤植でもない。1946年に日本語の表記から外されたはずの仮名が、酒売り場ではこの一社の名前にだけ生き延びているのだ。
「ヰ」は、かつて日本語にあったもう一つの「い」
「ヰ」は「ゐ」の片仮名である。五十音図でいえば、ワ行の「い」の位置に座る文字だ。ワ行は「わ・ゐ・う・ゑ・を」と並び、「ゐ」はもともと wi、「ゑ」は we に近い音を表していた。
ただ、この二つの音は早い時期に「い」「え」との区別を失っていったとされる。音として消えたあとも、文字だけは歴史的仮名遣いのなかに残り続けた。「ゐる(居る)」「こゑ(声)」といった書き方である。
そして外来語を片仮名で写すときにも、この文字は使われた。英語 whisky の wi を素直に音写すれば「ウヰ」になる。戦前の日本で「ウヰスキー」と書くのは、奇をてらった表記ではなく、当時としてはごく自然な選択だった。
1946年、「ゐ」と「ゑ」が表記から外れた
転機は戦後すぐに訪れる。1946年(昭和21年)11月16日、内閣告示第33号として「現代かなづかい」が告示された。歴史的仮名遣いに代えて、現代の発音を基準にかなを書く——という方針である。
このなかで「ゐ・ゑ・を」は「い・え・お」と書く、と定められた(助詞の「を」だけは例外とされた)。発音上とうに区別のなくなっていた文字を、表記の側からも外したかたちだ。この告示は1986年の「現代仮名遣い」(内閣告示第1号)に引き継がれ、今日に至っている。
ちなみに、これらの告示が扱ったのは主に和語・漢語の仮名遣いで、外来語の表記は対象外だった。1986年の告示は前書きで「この仮名遣いは、擬声・擬態的描写や嘆声、特殊な方言音、外来語・外来音などの書き表し方を対象とするものではない」とわざわざ断っている。それでも片仮名の側でも同じ流れで「ヰ」「ヱ」は使われなくなり、「ウヰスキー」という書き方は公の場から静かに退場した。——はずだった。
なぜ酒売り場でニッカだけが「ヰ」を残しているのか
竹鶴政孝が北海道・余市に蒸溜所を築くために興した会社の名は、当初「大日本果汁株式会社」といった(設立は1934年、登記上の本店は東京に置かれている)。ウイスキーの熟成を待つあいだ、リンゴジュースで食いつなぐための社名だった。1940年6月、ようやく世に出た最初のウイスキーに付けられた商品名が「ニッカウヰスキー」。「ニッカ」は「日果」——大日本果汁の略称を片仮名で書いたものだ。そして1952年8月、会社そのものが「ニッカウヰスキー株式会社」へ商号を変更する。
では、なぜ「ウイスキー」ではなく「ウヰスキー」なのか。現在ニッカが属するアサヒグループのサイト(アサヒビールのお客様相談室Q&A)は、こう説明している。ウイスキーは水が命だから、井戸の「井」の字を使って「ニッカウ井スキー」で登記を申請した。ところが当時は漢字と片仮名を混ぜて登録することができず、やむなく字形の似た片仮名「ヰ」を用いた——と。これとは別の説として、whisky の「wi」の音に近いから、という理由も挙げられている。
前者は会社側の説明として伝わる由来で、この「登記」が1940年の商標なのか1952年の商号なのかまでは明示されていない。ただ、少なくとも1940年の発売時点で商品名はすでに「ニッカウヰスキー」だった。1946年の告示より前に生まれた表記が、告示のあとに登記された社名へそのまま引き継がれた——時系列としては、そう並ぶ。
いま最も身近にその一文字を目にできるのは、スーパーの棚に並ぶ1,000円台の一本の、裏ラベルである。

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