なぜスペイサイドには世界一多くの蒸留所が集まっているのか——水と大麦、密造の谷、そして鉄道
スコットランドのモルトの約半分を生むスペイサイド。なぜ一つの地域に蒸留所が世界一密集したのか、土地・密造・鉄道の三つの必然から読み解く。
スコットランドの地図にウイスキー蒸留所を点で描いてみると、北東部のある一帯だけ、点が異常なほど密集していることに気づく。それがスペイサイドだ。スコットランド全体にはおよそ150の蒸留所があるが、そのうち50以上がこの狭い地域に集まっている。生産量でみれば、スコッチのモルトウイスキーのおよそ半分がこの一帯から生まれているとされる。
なぜこれほどの蒸留所が、ひとつの地域に集中したのか。答えは「土地の恵み」「密造の歴史」「鉄道とブレンド需要」という三つの条件が、見事に重なり合った結果だった。
まず、ウイスキーを造るのに向いた土地だった
スペイサイドの名は、この地を流れるスペイ川に由来する。川そのものと、リベット川・フィディック川・エイヴォン川といった支流が、蒸留に欠かせない良質な軟水を豊富に供給した。多くの蒸留所名に「グレン(谷)」が付くのは、こうした川の谷筋に建てられたからだ。
水だけではない。この一帯はモレイ地方の肥沃な平野を抱え、古くから「スコットランドの穀倉」と呼ばれるほど大麦がよく育った。原料の大麦と仕込み水、その両方が手近にそろう——ウイスキーを造るうえで、これ以上ない立地だったのである。
「密造の谷」から、すべては始まった
18世紀から19世紀初頭にかけて、スペイサイドの人里離れた谷では非合法の蒸留が横行していた。なかでもグレンリベットの谷で造られる酒は品質の高さで評判をとり、密造酒でありながらブランドのように名が知られていたという。
転機は1823年の酒税法だった。税を引き下げ、免許制度を簡素にして、合法的な蒸留を成り立たせようとしたこの法律を受け、翌1824年、密造者だったジョージ・スミスがこの地で最初に正式な免許を取得する。合法化を裏切りと見た周囲の密造仲間から命を狙われ、彼はしばらくピストルを手放せなかったと伝わる。この一歩が、密造の谷を「世界のウイスキーの聖地」へと変えていく最初の号砲になった。

鉄道とブレンドが呼んだ、蒸留所の爆発的増加
決定打となったのは、19世紀後半のブレンデッドウイスキーの隆盛だった。フルーティで中庸なスペイサイドの原酒は、多くの原酒を混ぜ合わせるブレンドの「土台」として理想的で、グラスゴーやエディンバラのブレンダーがこぞって欲しがった。
そこへ鉄道が通じる。19世紀後半に鉄道網がこの地へ延びると、大麦・石炭・空樽といった資材が運び込まれ、できあがったウイスキーは大消費地のブレンダーへと一気に送り出せるようになった。需要と輸送がそろい、蒸留所建設のラッシュが起きる。1890年代にスコットランド全体で開業した33の蒸留所のうち、その多く——20あまりがスペイサイドに集中した。グレンフィディックが1887年、バルヴェニーが1892年に創業したのも、まさにこの熱狂のさなかである。
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