なぜ日本の会社が最初に買ったスコッチ蒸溜所は、トマーティンだったのか——23基のスチルで走りすぎた巨人と、1986年の救済
サントリーのボウモアでも、ニッカのベン・ネヴィスでもない。日本企業が丸ごと手にした最初のスコッチ蒸溜所は、1986年のトマーティンだった。23基まで膨らんだスチルと清算、そして買い手が「長年の客」だった理由をたどる。
日本の会社が持っているスコッチ蒸溜所、と聞いて思い浮かぶのは、サントリーのボウモアか、ニッカのベン・ネヴィスだろう。どちらも1989年に日本の資本が入った蒸溜所だ。
けれど、日本企業が丸ごと手にした最初のスコッチ蒸溜所は、そのどちらでもない。インヴァネスの南に広がる高地の村に建つ、トマーティンである。1986年のことだった。

牛追いが立ち寄った土地に、1897年
トマーティンの地では15世紀とも16世紀ともいわれる昔から酒が造られ、家畜を追って旅する牛追いたちが立ち寄って買っていった——と言い伝えられている。あくまで伝承で、確かな記録が残っているわけではない。
正式な蒸溜所が建ったのは1897年。トマーティン・スペイ・ディストリクト・ディスティラリー社として操業を始めた。もっとも滑り出しは順調ではなく、会社は1906年に行き詰まり、蒸溜所が再び動き出すのは1909年になってからだ。
この蒸溜所には、創業時から変わった事情がひとつある。土地は水に恵まれていたが、人がいなかった。そこで設計者は、蒸溜所と一緒に働き手のための家を建てるよう指示された。家はその後も増え続け、いまも敷地には30軒ほどが点在している。従業員のおよそ8割が、その家に住んでいるという。
職場というより、蒸溜所が村をまるごと抱えている。この成り立ちは、あとの話にも効いてくる。
2基から23基へ
戦後、トマーティンは異様な勢いで膨らんでいく。
長らく2基だったポットスチルは、1956年に4基、1958年に6基、1961年に10基、1964年に11基と増え、1974年にはついに23基に達した。1970年代のピーク時には年1,250万リットル規模の生産能力を備え、当時スコットランド最大のモルト蒸溜所となった(蒸溜所自身は「世界最大」とも称している)。
なぜそこまで造ったのか。理由は単純で、当時のスコッチの主役はブレンデッドであり、その中身になる原酒はいくらでも売れると信じられていたからだ。トマーティンのモルトは、自社の名を冠したボトルではなく、他社のブレンドの一部として世界へ流れていった。
ところが1980年代に入ると、その前提が崩れる。世界的にスコッチの需要が落ち込み、業界には売れない原酒が湖のように溜まった。バルク供給に賭けていた蒸溜所ほど、傷は深い。トマーティンは1985年に立ち行かなくなり、清算へ向かった。
1986年、買い手は「長年の客」だった
そこで手を挙げたのが、日本の二社である。
ひとつは京都で1842年に酒造業として始まった宝酒造。この会社は1960年代からトマーティンの原酒をバルクで買い付けていた。もうひとつは東京の商社、大倉商事。こちらも同じくトマーティンの輸入元だった。
1986年、二社は共同でトマーティン・ディスティラリー社を設立し、蒸溜所を引き取る。スコットランドの蒸溜所が日本企業の全額出資で所有された、最初の例だ。
見落とされがちなのは、これが「異国の資本が突然乗り込んできた」話ではない点だ。買ったのは、20年以上その蒸溜所の酒を買い続けてきた客だった。原酒の供給元が消えて困るのは、彼ら自身でもある。救済であり、同時に自衛でもあった。
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