なぜタラモアデューは、蒸溜所を失った60年間も生き延びたのか——支配人のイニシャルを冠した酒と、リキュールに追い越された蒸溜所
世界2位のアイリッシュ、タラモアデュー。だが名前の由来である町の蒸溜所は1954年に火を落とし、2014年に生産が戻るまでの60年間、この酒はタラモアで造られていなかった。名前だけが生き延び、故郷へ帰るまでの物語。
スーパーや量販店のアイリッシュの棚で、ジェムソンの隣にたいてい並んでいる緑のラベル。タラモアデューは、世界で二番目に売れているアイリッシュウイスキーだ。
ところがこの酒には、他の定番銘柄にはあまり例のない経歴がある。名前の由来になった町の蒸溜所は、1954年に火を落とした。そこから2014年に生産が戻るまでの60年間、「タラモアデュー」はタラモアで造られていなかったのだ。
蒸溜所を失った銘柄は、ふつう静かに消えていく。なぜこの一本だけは、故郷を離れたまま生き延び、そして帰ってこられたのか。
D.E.W.は、創業者の名前ではない
タラモアの蒸溜所が生まれたのは1829年。創業者はマイケル・モロイという人物で、1846年に彼が世を去ったあと、蒸溜所は縁者のあいだを巡り、やがて甥のバーナード・デイリーが引き継いだ。
ラベルの「D.E.W.」は、このどちらの名前でもない。ダニエル・エドマンド・ウィリアムズ(1848–1921)——雇われて働き始め、やがて総支配人となり、ついには経営を握った男のイニシャルである。入社の時期や昇進の年は資料によって幅があるが、現場の一従業員から蒸溜所の顔にまで上りつめた人物だという点は共通している。
イニシャルがブランド名に入った経緯にも、彼自身が1880年代に加えたとする説と、1921年の死後に一族が彼を称えて冠したとする説がある。はっきりしているのは、いまボトルに刻まれている一文のほうだ。
Give Every Man His Dew
英語には "give every man his due"——「誰にでも当然受け取るべきものを」という慣用句がある。その due を、朝露を意味する dew に、そしてウィリアムズの頭文字 D.E.W. に掛けた三重の言葉遊びになっている。
創業者でも一族の当主でもない、いわば「勤め上げた人」の名前が世界的な銘柄になった例は、そう多くない。
蒸溜所を止めたのは、ウイスキーではなくリキュールだった
20世紀前半のアイリッシュウイスキーは、坂道を転げ落ちるような時代を過ごしている。アメリカの禁酒法で最大の輸出先を失い、独立にともなって英連邦の販路も細り、そこへ大量生産で価格競争力を持つスコッチが押し寄せた。
タラモアの蒸溜所も無傷ではいられず、1925年にコスト削減のため一度火を落としている。1930年代に入ると英愛の経済対立と国内の高い酒税が重なり、逆風はさらに強まった。それでも会社は1937年、十年あまりの空白を経て蒸留を再開している。
決定打になったのは、意外にもウイスキーの不振そのものではなかった。1940年代後半、ウィリアムズ家の後継者デズモンド・E・ウィリアムズが、ウイスキーをベースにした甘いリキュール「アイリッシュミスト」を世に出す。これがよく売れた。
1954年、会社は蒸留を止める。より利益の出るリキュール事業に資源を集中するためだった。自分たちの造ったウイスキーが、自分たちの造った甘いリキュールに追い越されて火を消した——これがタラモア蒸溜所の最期である。
名前だけが、60年生き延びた
蒸溜所が消えても、ブランドは残った。ただし、その残り方は少し切ない。
閉鎖時に手元にあった熟成中の在庫は、アイリッシュミストの原料としても使われ、1960年代には心もとない量まで減っていた。ウイスキーを造る手立てを持たない会社が、リキュールのための原酒に困る。1965年、デズモンド・ウィリアムズはタラモアデューのブランドをダブリンのパワーズ(ジョン・パワー・アンド・サン)へ売却した。ブランドを渡す見返りに、パワーズがアイリッシュミスト用のウイスキーを供給する取り決めだった、とする記述もある。
パワーズは1966年に他の二社と合併してアイリッシュ・ディスティラーズとなり、1970年代にはグループの生産がコーク州のミドルトン蒸溜所へ集約されていく。ミドルトンはジェムソンを造る、アイルランド最大の蒸溜所だ。
つまりこの時期、タラモアデューとジェムソンは同じ屋根の下で生まれる兄弟のような関係にあった。ラベルには町の名が刷られているのに、中身は車で200キロ近く走った先で造られていたことになる。
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🇮🇪 アイルランド ・ タラモア蒸留所ほか ・ ブレンデッド ・ 12年 ・ 40%

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