なぜ蒸溜所に常駐していた検定官こそが、酒税を消していたのか——1875年アメリカ、生産量を半分に書いた役人と、238人の起訴
酒税を取りこぼさないため、アメリカは蒸溜所に検定官を常駐させた。ところが1875年、その役人こそが造り手と組んで税を消していたことが発覚する。238人が起訴された「ウイスキー・リング」と、大西洋を挟んだもう一つの答え。
アメリカの蒸溜所には、かつて政府の役人が詰めていた。造られた酒の量を測り、納めるべき税額を確定させる検定官——ゲージャーと呼ばれる人たちである。ごまかしを防ぐなら、造る現場そのものに人を置けばいい。理屈としては、これ以上ないほど真っ当に見える。
ところが1875年、その仕組みが根こそぎ裏返っていたことが明るみに出た。税を守るために置かれた役人こそが、税を消す側に回っていたのだ。のちに「ウイスキー・リング」と呼ばれる事件である。
1ガロンあたりの数字が、跳ね上がった
そもそもアメリカには、長いあいだ蒸留酒への連邦税が存在しなかった。1791年にいちど導入されたが、西部を中心に嫌われ続けたすえ1802年に廃止。1813年に一時的に復活したのを最後に、連邦の蒸留酒税は1817年でいったん消えている。
それを引き戻したのが南北戦争だった。1862年7月の法律で、1プルーフガロンあたり20セントの税が課される。戦費が膨らむにつれて税率も上がり、1865年1月には2ドル。3年足らずで10倍である。
税が高くなれば、逃れようとする者が出る。密造が広がったため、政府は1868年に50セントまで下げた。その後ふたたび引き上げられ、1872年8月に70セント、事件が表沙汰になる直前の1875年3月には90セントになっている。
「1ガロンいくら」で課税する以上、徴税の要は「何ガロン造ったか」を誰が測るかに尽きる。だから政府は、蒸溜所に自前の検定官を置いた。ウイスキーが樽に入り、倉庫に収まり、出荷されるまでを役人が見届ける。税の支払いを出荷まで待てる保税倉庫の仕組みも、この立会いがあって初めて成り立つ(発想そのものは、スコットランドのほうが先に制度化している——なぜ20年ものウイスキーは、20年前に酒税を先払いせずに済むのか)。
酒の税をめぐってアメリカが荒れるのは、これが初めてではない。西部に嫌われた1791年の税は、1794年、ついに武力衝突にまで行き着いている。課税に反発した農民に対し、大統領が自ら軍を率いて向かったのだ(なぜアメリカ大統領は、ウイスキーの税のために自ら軍を率いたのか)。8年後の廃止は、その延長線上にある。
ただし1875年に税を消したのは、山の民ではなかった。
測る人を、味方につけてしまえばいい
仕組みは単純だった。党に近い人物を、蒸溜所付きの検定官として送り込む。その検定官が、実際の生産量をおおよそ半分に申告する。申告から漏れた分の酒は、税を納めないまま世に出ていき、浮いた金を造り手と役人が分け合う。
始まりは1871年ごろ、共和党の選挙資金をつくるための仕掛けだったとされる。中心地はミズーリ州セントルイス。シカゴやミルウォーキーにも広がっていた。収税印紙を使い回す、帳簿の上では別の品目として記録する——そうした手口も伝えられている。1873年ごろには、この一味が連邦財政から抜き取っていた額は年150万ドル規模に達していたと見積もられている。
ここで効いているのは、不正が造り手だけでも役人だけでも成立しないという点だ。測る人と測られる人が同じ側に立った瞬間、書類の上のウイスキーは、樽の中の実物から静かに切り離される。現場に人がいることは、そのままでは何の保証にもならない。
1875年5月10日
崩したのは、財務長官ベンジャミン・H・ブリストウだった。1874年6月に就任した彼は、一味の手が財務省の内部にも伸びていると見て、省内にも伏せたまま調査を進める。潜入させた調査員と情報提供者を使い、証拠を積み上げた。
そして1875年5月10日、全国で一斉に手入れをかける。逮捕された容疑者は300人を超えた。起訴されたのは238人、うち110人が有罪。取り戻した税は300万ドルを上回った。
セントルイスで内国歳入の監督官を務めていたジョン・マクドナルドは有罪となり、罰金5,000ドルと実刑を言い渡されている。ただし彼は服役中の1877年初め、退任間際のグラント大統領の恩赦で獄を出た(刑期は18か月とも3年とも、釈放も1月とも3月3日とも記され、資料によって食い違う)。
大統領の秘書官まで、糸はつながっていた
事件が厄介だったのは、糸がホワイトハウスの内側まで伸びていたことだ。
1875年7月、ブリストウらから報告を受けたグラントは「罪ある者を一人も逃すな、避けられるかぎりは」と応じたと伝えられる。その但し書きは、のちのちまで議論の的になった。ところが糸の先にいたのは、ほかならぬ自身の私設秘書オービル・バブコックだった。捜査を妨げ、一味に情報を流していた疑いである。
バブコックは1875年の暮れに起訴され、翌1876年2月に裁判にかけられた。2月12日、グラントはホワイトハウスで宣誓供述を行い、バブコックの誠実さへの信頼は揺らいでいないと述べている。最高裁長官モリソン・ウェイトが立ち会って認証した供述だった。バブコックは2月25日に無罪となる。主要な被告のなかで、無罪を勝ち取ったのは彼だけだった。
特別検察官に据えられた元上院議員ジョン・B・ヘンダーソンは、大統領が訴追に口を出していると匂わせたことで解任されている。グラント本人が不正に加わっていたことを示す証拠は、今も出ていない。ただ、側近をかばう側に回った大統領の姿は、事件の後味として残った。
なお、アメリカ大統領がウイスキーの中身そのものに裁定を下すのは、これより30年余り後のことになる(なぜアメリカでは、大統領が「ウイスキーとは何か」を裁定したのか)。
スコットランドは、酒の通り道に封をした
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