なぜアメリカ大統領は、ウイスキーの税のために自ら軍を率いたのか——12,950人を集めた1794年と、その3年後に全米最大級の蒸溜所を建てた同じ男
アメリカ史でただ一度、現職大統領が自ら軍を率いた相手は、自国のウイスキー蒸留者だった。1794年のウイスキー反乱と、その3年後にジョージ・ワシントン自身が建てた全米最大級の蒸溜所の話。
アメリカの歴史で、現職の大統領が自ら軍を率いて出陣したことは一度しかない。相手はイギリス軍でもフランス軍でもなく、自国の農民だった。彼らが守ろうとしていたのは、自分たちで蒸留したウイスキーである。
そしてその3年後、軍を率いた当人は、全米でも最大級のウイスキー蒸溜所の持ち主になっていた。ジョージ・ワシントン。1794年のウイスキー反乱と、マウント・バーノンの蒸溜所の話をしたい。
馬一頭で運べるのは、穀物なら4ブッシェル、ウイスキーなら24ブッシェル
18世紀末のペンシルベニア西部は、アレゲニー山脈で東海岸から切り離された土地だった。収穫したライ麦をそのまま市場へ運ぼうとすれば、かさばるうえに道中で傷む。だが蒸留して酒に変えれば、腐らず、単価も上がる。馬一頭が背負える量は、穀物のままなら4ブッシェル分。ウイスキーにすれば24ブッシェル分になった。
しかも、この土地には現金がほとんど流通していなかった。だからウイスキーそのものが通貨の役割を果たした。労賃も、買い物も、樽から量り売りされる酒で決済される。西部の小さな蒸留器は、酒を造る道具であると同時に、貨幣を生む装置でもあったのだ。
1791年、釜の大きさに税がかかった
1791年3月、連邦議会は国産蒸留酒への物品税を可決する。提案したのは財務長官アレクサンダー・ハミルトン。独立戦争で各州が抱えた債務を連邦が引き受けるにあたり、その財源が要った。
問題は課税のしかたにあった。国産の穀物から造る「田舎の蒸留器」には、二つの払い方が用意されていた。ひとつは蒸留器の容量1ガロンにつき年60セントという定額。もうひとつは、実際に造った量に応じて1ガロンあたり9セント(度数が高ければ上がる)を払う方式である。翌1792年の改正で税率は引き下げられ、田舎の蒸留器の年額は容量1ガロンにつき54セント、生産量に応じる方式は1ガロン7セントとなった。あわせて、稼働させる月数だけライセンスを取る道も開かれた。
数字だけ見れば穏当に思える。だが西部の農民にとっては、そもそも現金で納めること自体が難題だった。手元にあるのは現金ではなく酒なのだ。
そして容量に対する定額は、釜からどれだけ搾り出したかを問わない。大きな釜を高い回転で回せる者ほど、造った1ガロンあたりの負担は薄まっていく。月数だけライセンスを取れるようになっても、この構図は変わらなかった。稼働のたびに釜1ガロンからどれだけ造れるかという差は、月数を減らしても残るからだ。回転の鈍い農場の釜では定額を薄めきれず、結局は生産量に応じた1ガロンいくらの税率に据え置かれることになる。
引き金を引いたのは、裁判所の場所だった。滞納を問われた蒸留者は、山を越えてフィラデルフィアの連邦裁判所まで出廷しなければならない。旅費と日数だけで身代が傾く距離である。議会は1794年6月5日にこれを改め、地元の州裁判所で審理できるようにした。だがそのときにはもう、60人あまりへの令状を携えた連邦保安官デイヴィッド・レノックスが、西部へ向けて出発したあとだった。
税に反発して密造へ向かうという構図は、スコッチウイスキーが「密造酒」から始まった歴史とよく似ている。違うのは、アメリカでは反発が武装蜂起にまで達したことだった。
徴税監督官の家が焼かれた夏
1794年7月15日、レノックスの案内役として令状を届けて回っていたのが、地元の徴税監督官ジョン・ネヴィルだった。二人はウィリアム・ミラーという農民の家にも召喚状を届けている。
翌16日の朝、ネヴィルが眠っていた邸宅バウアーヒルを、武装した30人ほどが取り囲んだ。身の危険を感じたネヴィルは発砲し、抗議側のオリバー・ミラーが撃たれて死亡する。17日には500人を超える集団が戻り、指揮を執ったジェームズ・マクファーレン少佐が銃撃を受けて命を落とした。屋敷は焼き払われた。
8月1日には、ピッツバーグ郊外のブラドックス・フィールドにおよそ7,000人が集結する。模擬のギロチンが立てられたとも伝わる。フランス革命の恐怖政治がまだ生々しい時代である。発足して数年の連邦政府にとって、これは酒税をめぐる小競り合いではなく、統治能力そのものを問われる事態になった。
12,950人と、大統領が「ウイスキーの国」へ向かった秋
ワシントンは4つの州から民兵を招集した。その数、12,950人。独立戦争中の大陸軍が抱えていた兵力を、多くの時期において上回る規模である。
9月30日にフィラデルフィアを発った大統領は、10月4日にペンシルベニア州カーライルで軍を閲兵し、そのまま部隊とともに西へ向かった。ただし反乱の中心地ピッツバーグには入らず、ベッドフォードまで進んだところで引き返し、10月下旬にはフィラデルフィアへ戻っている。以後の指揮はヴァージニア州知事ヘンリー・リーに委ねられ、ハミルトンが同行した。現職の大統領が野戦の軍とともに進軍したのは、アメリカ史でこのときだけである。
この遠征にまつわる、少しおかしな記録が残っている。ワシントンの個人秘書が陸軍長官ヘンリー・ノックスに宛てて、大統領は「ウイスキーの国へ行くのだから、その酒を自分の飲み物にするつもりだ」と書き送っているのだ。マウント・バーノンの資料によれば、ワシントンが自らウイスキーを口にすることをうかがわせる記録は、これが最初だという。マデイラやポートといった酒精強化ワインを好んだ人物で、ウイスキーはふだんほとんど飲まなかった。
軍が着いたとき、抵抗はほぼ残っていなかった。反乱者たちは丘へ散り、拘束されたのは150人ほど。反逆罪に問われたのは24人で、有罪となった2人もワシントンが恩赦した。大きな戦闘が起きないまま、「連邦政府は国民に課税できる」という一点だけが確定した。当の税は1802年、ジェファーソン政権下で廃止される。
3年後、大統領は蒸溜所を建てた
1797年、大統領を退いてマウント・バーノンに戻ったワシントンに、農場管理人が事業を持ちかけた。スコットランド出身のジェームズ・アンダーソン。スコットランドとヴァージニアの双方で蒸留の経験を積んだ男である。
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