なぜ蒸溜所の心臓部には、鍵のかかった箱が置かれているのか——造り手が自分の酒に触れられなかった時代と、ガラス越しの見極め
蒸溜室の中央に据えられた、真鍮とガラスの箱「スピリッツセーフ」。錠が下りているのは味や衛生のためではなく、税のためである。長らく鍵を握っていたのは造り手ではなかった。触れられないまま、どうやって味は決められてきたのか。
スコットランドの蒸溜所を見学すると、たいてい足が止まる場所がある。ポットスチルが並ぶ蒸溜室の一角に据えられた、真鍮とガラスでできた水槽のような箱だ。中では透明な液体が細く流れ落ちていて、正面には錠が下りている。
スピリッツセーフ。直訳すれば「酒の金庫」である。
蒸溜所の一日でいちばん大事な判断は、この箱の中で下される。にもかかわらず、造り手はその液体に手を触れられない。なぜ鍵がかかっているのか。理由は、味でも衛生でもなかった。
生まれたての酒は、すべてこの箱を通る
ポットスチルで蒸留された液体は、冷却器を抜けたあと、必ずスピリッツセーフを経由してから受け器へ向かう。その蒸溜所で生まれるニューメイクスピリッツは、一滴残らずここを通過する。
そしてこの箱は、酒が三つに切り分けられる場所でもある。最初に出てくる荒々しい部分(フォアショッツ。日本語では初留と呼ぶが、一回目の蒸留のことではなく、留出のはじめの部分を指す)、中心の澄んだ部分(ハート=中留)、最後の弱くなった部分(フェインツ=後留)。樽に詰められるのはハートだけで、前後は再蒸留へ回される。どこで切り替えるかによって、その銘柄の骨格が決まる(詳しくは蒸留の「カット」の話で書いた)。
蒸溜所でもっとも価値のある液体が流れ、もっとも繊細な判断が下される心臓部。そこに、錠が下りている。
錠の理由は、味ではなく税だった
18世紀から19世紀初めのスコットランドでは、重い酒税を逃れた密造が当たり前のように行われていた(スコッチが密造酒から生まれた話)。潮目を変えたのが1823年の酒税法だ。スコッチウイスキー協会の説明によれば、この法律は蒸留免許の料金を10ポンドに定め、蒸留酒の税率を整理し、税を納める前に樽で貯蔵しておくことを認めた。要するに、合法でやったほうが得になる制度へ切り替えたのである。
ただし合法化すると、今度は「どれだけ造ったか」を国が正確に把握しなければならない。造った量に応じて税を取る以上、途中で抜かれれば税は消えてしまう。
そこで採られたのが、酒の通り道そのものを、見えるけれど手は届かない箱に閉じ込めるという方法だった。ガラス越しに液体は見え、度数も温度も測れる。しかし蓋には錠が下りていて、開けられない。
順序として面白いのは、この箱が1823年法より先に生まれていることだ。原型は1810年代末にフォックスという人物が特許を取った検査用の「のぞき箱」で、蒸留液を空気にさらさずに確かめるための道具だった(下の名前はセプティマスともジェームズとも書かれ、年も1819年とも1820年代とも記され、資料によって食い違う)。合法化が発明を生んだのではない。すでにあった道具が、1823年法を境に免許蒸溜所へ義務づけられ、業界の標準になっていった。
収税吏を憎んだ国で、収税吏になった詩人
この時代の空気を、ひとりの人物がよく表している。スコットランドの国民的詩人、ロバート・バーンズだ。
彼は1780年代の終わりに収税吏(エキサイズ・オフィサー。税務官とも訳される)の職を得て、1796年に亡くなるまでその仕事を続けた。密造を取り締まる側である。そして在職中の1792年、「The Deil's Awa wi' th' Exciseman(悪魔が収税吏をさらっていった)」という歌を発表している。収税吏がいなくなって村が沸き立つ、という筋書きだ。本人の書簡によれば、収税吏たちの晩餐の席で、これを自ら歌ってみせている。
自分の職業を笑い飛ばす歌を、自分で作って、同僚の前で歌う。酒と税のあいだに横たわっていたこの緊張関係が、蒸溜室では錠前というかたちを取っていた。
鍵を持っていたのは、蒸溜所の人間ではなかった
長いあいだ、この錠を開けられたのは造り手ではなかった。鍵を握っていたのは収税吏である。
しかも彼らは通いですらなかった。1979年の酒類税法(それ以前の諸法を統合した法律)には、担当官にふさわしい住居がその地域に確保できないと当局が判断した場合、宿舎を提供する約束がなければ蒸留免許を拒むことができる、という規定が残っていた。その宿舎は蒸溜所に近いことが求められる一方、蒸溜所の一部であってはならないとも定められている。役人を敷地のすぐ外に住まわせるこの仕組みは、条文としては長く生き残り、正式に効力を失ったのは1990年の財政法によってである。
だから造り手は、自分の酒に文字どおり触れられなかった。度数を読むのも、受け器を切り替えるのも、箱の外側に突き出たハンドルとバルブを介してだけ行う。ガラスの向こうを自分の酒が流れていくのを、毎日眺めていたわけである。
実務が変わったのは1983年とされる。この頃を境に蒸溜所側も鍵を持つようになり、当局は仕込んだ穀物の量と申告された生産量を突き合わせるかたちへ監督を移した。先ほどの宿舎の規定は、常駐が終わったあとも死文としてしばらく残っていたことになる。
触れないまま、どうやって味を決めるのか
では、蓋を開けられない造り手は何を手がかりにハートへ切り替えるのか。
ひとつは数字だ。箱の中にはハイドロメーター(比重計)が浮かべてあり、ガラス越しに度数が読める。一般的な目安として、度数が75%前後まで落ちたところでハートへ切り替え、70〜60%あたりまで下がったらフェインツへ回す、といった説明がよくなされる。ただし切り替え点は蒸溜所ごとに大きく違い、そのずれこそが個性になる。
もうひとつは、もっと古典的な方法である。外に出たハンドルを操作して、箱の中の小さな器に水を注ぐ。油分の多いはじめの部分は白く濁り、澄んだ部分に入ると濁らなくなる。蓋は閉じたまま、その変化をガラス越しに見るのだ。触れられないという制約は、こうして「見る技術」に置き換えられてきた。
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