なぜアイリッシュウイスキーは、世界一の座から蒸留所2つにまで転落したのか——そして今、世界一の伸び率で甦った理由
19世紀に世界一だったアイリッシュウイスキーは、なぜ蒸留所2つにまで転落し、いかにして世界一の成長株に甦ったのか。コフィ・スチル、禁酒法、ジェムソンの復活まで、その劇的な盛衰史をたどる。
いまでこそ「なめらかで飲みやすい酒」として親しまれるアイリッシュウイスキーだが、その歴史は平坦ではない。19世紀、アイリッシュは押しも押されもせぬ世界一のウイスキーだった。それがわずか数十年で、島に残る蒸留所がたった2つになるまで転落する。そして今、世界でもっとも伸びている蒸留酒として甦った——この記事では、その劇的な「落ちて、立ち上がる」物語をたどる。
かつてアイリッシュは「世界一のウイスキー」だった
19世紀のアイルランドは、まぎれもないウイスキー大国だった。英国の作家アルフレッド・バーナードが1887年に各地の蒸留所を記録したとき、アイルランドには28の蒸留所が稼働していた。とりわけダブリンの蒸留所群の名声は世界中に響き、アイルランド全体の生産量は1900年ごろにおよそ1,200万ケースに達したといわれる。
なかでもアメリカ市場での存在感は圧倒的で、19世紀には米国で売れるウイスキーの6割以上がアイリッシュだった時期もある。「ウイスキーといえばアイルランド」——それが当時の世界の常識だった。
転落——皮肉と不運が重なった半世紀
ところが20世紀に入ると、アイリッシュは坂道を転げ落ちていく。原因は一つではなく、皮肉と不運が幾重にも重なった。
まず技術の分かれ道があった。1830年、アイルランドで長く徴税官を務めたエニアス・コフィが、安く大量に造れる連続式蒸留器(コフィ・スチル)を完成させる。ところがアイルランドの蒸留家たちは、これで造る酒を「良いか悪いか以前に、そもそもウイスキーではない」と切り捨て、伝統的な単式蒸留(ポットスチル)に固執した。皮肉にもこの新技術を全面的に取り入れたのはスコットランドで、軽くて安いブレンデッドスコッチが世界市場を席巻していく。
追い打ちをかけたのが政治と戦争だ。アイルランド独立戦争とそれに続く内戦、そして英国との貿易戦争によって、最大の市場だった英国と英連邦諸国への輸出路が断たれた。さらに1920年から始まったアメリカの禁酒法が、2番目に大きな市場をまるごと奪う。おまけに禁酒法下のアメリカでは、粗悪な密造酒が「アイリッシュ」を名乗って出回り、ブランドの評判まで傷つけられた。
蒸留所2つ、そして底
売り先を失った蒸留所は、次々と灯を消していった。生き残りをかけ、1966年、ダブリンの名門ジェムソンとパワーズ、そしてコークのコーク・ディスティラーズ・カンパニーの3社が合併し、アイリッシュ・ディスティラーズが誕生する。1972年には北アイルランドのブッシュミルズも同グループに加わり、生産は次第に一つの拠点へ集約されて、1975年には新しいミドルトン蒸留所が稼働を始めた。
こうして島で操業するのは、実質2つの蒸留所だけという状態になる。かつて1,200万ケースを誇ったアイルランド全体の生産量は、この時期には40〜50万ケースにまで落ち込んだ。世界一だった酒の、これが底だった。

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