なぜI.W.ハーパーは、本国アメリカで25年も「消えていた」のか——4ドルを握った移民が興し、日本の棚が生かし続けたバーボン
バーの棚でおなじみの金メダルのラベル。だがI.W.ハーパーは1990年から2015年まで、本国アメリカの店頭から姿を消していた。理由は本国での不振というより、日本で売れすぎたこと。19世紀のドイツ移民が興した一本の、ねじれた来歴をたどる。
バーの棚に並ぶバーボンのなかに、金色のメダルをあしらったラベルの一本がある。I.W.ハーパー。日本では「ハーパー」の名で親しまれ、ロックやハイボールの定番として、ごく当たり前に置かれてきた。
ところがこの銘柄は、本国アメリカでは1990年から2015年まで、店頭から姿を消していた。アメリカ人の多くが名前すら知らないあいだ、日本の飲み手はこのバーボンを飲み続けていたことになる。
しかも棚から降ろされた引き金は、本国での不振そのものではなかった。日本で高く売れすぎたことが決定打になった、と説明されている。話は、ポケットに4ドルだけ入れて海を渡った青年から始まる。
4ドルを握ってニューヨークに着いた青年
I.W.ハーパーの「I.W.」は、アイザック・ウォルフ・バーンハイムという人物のイニシャルだ。1848年にドイツで生まれ、1867年、10代の終わりにアメリカへ渡っている。上陸したときの所持金は4ドルだったと伝えられる。
行商から身を起こした彼は、やがて追って渡米した弟のバーナードとともに、ケンタッキー州パデューカで酒類の卸売業「バーンハイム・ブラザーズ」を興す。ケンタッキーがバーボンの本場であり続ける理由は、この時代にはもう出来上がっていた。ウイスキーは樽単位で売られ、造り手も品質もばらばら——そんな市場で、彼らは「いつ買っても同じ味」の一本を看板にしようとする。
自分たちの蒸溜所を持つのは、ずっと後のことだ。まずは名前だった。
なぜ「バーンハイム」と名乗らなかったのか
1870年代、看板商品に選ばれた名は、自分たちの姓ではなく「I.W. Harper」だった。
由来には諸説ある。よく語られるのは、顧客に好かれていた営業担当のハーパー氏の名を借りたという説。客が「ハーパーさんのウイスキーをくれ」と注文するので、アイザックは自分のイニシャルにその名を組み合わせた、というものだ。もう一つは、名馬テンブルックを送り出したケンタッキーの馬産一族、ハーパー家から取ったという説である。いずれも決め手を欠いたまま語り継がれている。
ただ、どの説をとっても見えてくることがある。ドイツ系移民の姓よりも、英語圏の耳になじむ響きのほうが売れる——19世紀のアメリカで、彼らはそう判断したということだ。
ラベルを埋めていった、金のメダル
品質は、わりあい早く認められた。1885年、ニューオーリンズで開かれた万国産業綿花百年記念博覧会で金賞を獲得する。以後も各地の博覧会で評価を重ねた——と、ブランドは伝えてきた。その受賞歴が、やがてラベルの意匠そのものになっていく。
いま日本で最も手に取りやすい定番が「ゴールドメダル」と呼ばれるのは、ここに由来する。アルコール度数は40%。バーボンにしては角が立たず、とろりとした甘さが前に出るタイプで、ロックにしても水やソーダで割っても崩れにくい。

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