なぜ富山の小さな蒸溜所は、寺の鐘をつくる職人と「世界初の蒸留器」を生んだのか——焼けた酒蔵と、曾祖父が遺した一杯
ポットスチルは銅板を叩いて溶接するもの——その常識を、富山・砺波の三郎丸蒸溜所は「鋳物」で覆した。四百年の鋳物の町と、二度立ち上がった酒蔵が生んだ、世界初の鋳造製蒸留器ZEMONの話。
ウイスキーの蒸留器(ポットスチル)は、銅の板を叩いて曲げ、溶接でつないで形にする。世界中どこの蒸溜所でも、何百年もそれが当たり前だった。要するに板金の仕事である。
ところが富山県砺波市の小さな蒸溜所は、それを鋳物で造ってしまった。溶かした金属を型に流し込む、寺の鐘と同じやり方で。2019年に動きはじめた、世界初の鋳造製ポットスチル「ZEMON(ゼモン)」だ。
なぜ地方の酒蔵に、そんな芸当ができたのか。この記事では、二度立ち上がった一軒の酒蔵と、鋳物を四百年つくり続けてきた町が、どうやって一つの蒸留器にたどり着いたのかを追う。
太陽の名をつけたウイスキー
三郎丸蒸溜所を営む若鶴酒造の創業は1862年。戦後の米不足で日本酒が思うように造れず、活路として蒸留酒へ向かった。1952年にウイスキーの製造免許を取り、翌1953年、最初の商品「サンシャインウイスキー」を世に出す。
この名前は公募で選ばれたものだ。戦争ですべてを失った国で、水と空気と太陽の光からできる蒸留酒によって、もう一度日を昇らせよう——そんな想いを込めた名だったと伝えられている。

ところが同じ1953年の5月11日、深夜の蒸留室から火が出た。6棟・延べ約635坪が全焼している。それでも蔵の再建は半年かからずに終わり、10月から始まる清酒の酒造期に間に合わせた。フランス製のアロスパス式蒸留機(高純度のアルコールを得る連続式の装置だ)が新たに据えられたのは、翌1954年11月のことである。
二度目の危機は、火ではなかった
危機は、もっと緩慢な形でもう一度訪れた。ウイスキー離れが進んだ2000年代、三郎丸は生産を止めてしまう。建屋は雨漏りし、設備は錆びていった。
流れを変えたのは、5代目の稲垣貴彦氏である。大学を出て東京のIT企業で働いていた稲垣氏は、2015年に富山へ戻り家業を継いだ。そこで、曾祖父にあたる2代目が1960年に蒸留した原酒を飲む。この一杯に打たれたことが、蒸溜所を建て直す決意になった、と本人は語っている。
とはいえ資金がない。2016年、蒸溜所改修のクラウドファンディングに踏み切ると、目標2,500万円に対して463人から3,825万5,000円が集まった。2017年7月、三郎丸は「見学できる蒸溜所」として再び動き出す。
蒸留器が、どこにも頼めなかった
再建で最後に残った問題が、蒸留器だった。当時、国内でポットスチルを造れる会社は1社しかなく、本場スコットランドに発注すれば納品まで3年待ち。小さな蒸溜所には、どちらも重い。
そこで相談を持ちかけた先が、同じ富山県、高岡市の老子(おいご)製作所である。梵鐘——寺の釣り鐘づくりで国内シェアの約7割を占める、鋳物の老舗だ。高岡の鋳物づくり自体、1611年に加賀藩主・前田利長が7人の鋳物師を招いたことに始まるとされる、四百年の歴史を持つ。
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