なぜスコットランドの小島では、拾ったウイスキーで19人が刑務所に入ったのか——1941年に座礁した26万本と、酒税官チャールズ・マッコールの執念
1941年、エリスケイ島沖で座礁した貨物船ポリティシャン号の第5船倉には、税を納めていないスコッチ26万本が積まれていた。島民は小舟を出し、19人が投獄された。映画『ウイスキー・ガロア』の元になった実話をたどる。
1941年2月のある朝、スコットランド西方の小さな島の沖で、一隻の貨物船が座礁した。第5船倉には、22,000ケース——瓶にして約26万本のスコッチウイスキーが積まれていた。
戦時下で、酒はろくに手に入らない。目の前には、船倉いっぱいの26万本がある。島の人々は小舟を出した。
その数か月後、19人がインヴァネスの刑務所に送られた。起訴された罪状は窃盗である。ただ、この一件をここまで執拗に追いかけた人物がいた。地元の酒税官だった。彼が我慢ならなかったのは、盗まれたのが酒だったことではなく、その酒が一本残らず税を納めていなかったことである。
ポリティシャン号という船
船の名はポリティシャン号。1923年にファーネス社の造船所で建造され、当初はロンドン・マーチャント号と呼ばれていた。1935年にT&Jハリソン社が買い取り、船名を改めている。総トン数は7,899トン(重量ではなく、船の容積を表す単位である)。
1941年2月上旬、この船はリヴァプールを発ち、ジャマイカのキングストンとニューオーリンズを目指していた。船長はビーコンズフィールド・ワージントン、乗組員は51名。
そして早朝、悪天候と視界不良のなか、船はヘブリディーズ諸島の小島エリスケイの沖で岩礁に乗り上げる。時刻はおよそ7時40分。
日付は、いまも揃っていない。地元エリスケイの記録と複数の報道は2月5日とし、船の履歴をまとめた資料は2月4日とする。そもそも出港時刻からして三通りの記録が併記されている状態で、記録の揺れは船が岸を離れた瞬間から始まっている。ともあれ乗組員は全員助かった。
第5船倉に何が積まれていたか
積荷は雑多だった。綿花、山刀(マチェーテ)、菓子、食器類、自転車、タバコ、パイナップルの缶詰、ビスケット。
そして第5船倉に、22,000ケース、約264,000本のスコッチウイスキー。さらに同じ第5船倉には、ジャマイカ向けの紙幣が8つの木箱に収められていた。10シリング札、1ポンド札、5ポンド札。額面の合計は300万ポンドに上ったとされる。
つまりこの船倉ひとつに、26万本の酒と、当時としては目のくらむような額の現金が同居していたことになる。
なぜその26万本には、税がかかっていなかったのか
この積荷には特殊な事情があった。
ウイスキーはリースとグラスゴーの保税倉庫から運び出されたものだった。倉庫は空襲を受けていた。爆撃で失う前に、そして戦費として使える外貨を稼ぐために、スコッチはアメリカへ送り出されようとしていたのである。
輸出品だから、英国内の酒税は課されない。この26万本には、一本として酒税の印紙が貼られていなかった。
戦争はウイスキーそのものも痩せさせていた。原料の穀物は食糧に回され、蒸溜所は操業を縮小していく(なぜ二度の大戦で、ウイスキーは造れなくなったのか)。手に入らないはずの酒が、税を免れた姿で、島の目の前に26万本。条件が出来すぎていた。
島の人々は、それを「サルベージ」と呼んだ
持ち出しは段階的に進んだ。座礁の翌日には乗組員の私物が持ち去られ、2月半ばには船内の保税庫が荒らされている。ただし本格化したのは、最初のサルベージ隊が作業を切り上げて島を去った3月12日以降だった。
やり方は素朴で、しかし手際がよかった。地元の伝承によれば、漁師たちは小舟を出し、エリスケイ・ポニーの背に載せたクリール(籠)に瓶を積んで運び上げた。持ち帰った瓶は小屋に、泥炭の積み山のなかに、床板の下に隠された。船倉の油で服が汚れれば足がつくので、男たちは妻の古いドレスを着込んで船に乗り込んだ、とも伝えられている。
彼らの理屈はこうだった。難破船から荷を拾うのは島に古くからある「サルベージ」であって、盗みではない。海が寄越したものは、拾った者のものだ。
法の側の理屈は違った。船の積荷には所有者がいる。加えて、税の納められていない酒が国内に流れ込むことは、税務当局にとって見過ごせない事態だった。
酒と税をめぐるこの衝突は、スコットランドではまったく新しい話ではない。18〜19世紀の高地では、税を逃れて谷で酒を蒸溜する者と、それを追う税務官の追いかけっこが延々と続いていた(なぜスコッチウイスキーは「密造酒」から生まれたのか)。ポリティシャン号の一件は、その長い歴史の20世紀版でもあった。
酒税官チャールズ・マッコールという男
島側と法側の対立を人の形にしたのが、チャールズ・マッコールという地元の酒税官である。
彼の動きは執拗だった。3月15日、難破船から戻ってくる小舟を臨検し、初日だけで18人分を記録している。続いて3月17日から22日、4月5日、そして6月6日から7日と、島々の家々を繰り返し捜索した。
もっとも、その成果がどれほどのものだったかは資料によって食い違う。ほとんど何も出てこなかったとする記述もあれば、相当量を押収したとする記述もある。島の人々が実際にどれだけ持ち出したのかも、正確な数字は残っていない。マッコール自身は2,000ケース程度と見積もり、7,000ケースとする研究者もいる。積荷のウイスキーは全部で22,000ケースだから、多く見積もっても3分の1ほどという計算になる。
裁判は二段構えで進んだ。4月26日、数名が3〜5ポンドの罰金を科されている。刑が軽すぎるとマッコールは憤り、追及を続けた。そして6月10日から13日にかけて、32人が窃盗の罪で法廷に立つ。
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