タスマニアのウイスキーは、本当に153年間禁じられていたのか——禁止が解けても、島は戻ってこなかった
世界最高のシングルモルトを生んだ島には「1839年から153年間、法律で禁じられていた」という物語がついてくる。だが禁止令は早くに廃止されたとする記述があり、蒸溜所公式ですら年表が食い違う。何が本当に島を止めていたのかを追う。
2014年、「世界最高のシングルモルト」に選ばれたのは、スコットランドでも日本でもなかった。オーストラリア・タスマニアのサリバンズコーブである。
この快挙は、たいてい一つの物語とセットで語られる。「この島では1839年から153年間、法律でウイスキー造りが禁じられていた。それを一人の男が覆した」——州の観光公式サイトも、蒸溜所自身の公式サイトも、ほぼこの筋で書いている。
劇的な話だ。ただ、年表を一つずつ並べていくと、この物語はいくつもの場所で噛み合わなくなる。
禁止そのものは、たしかにあった
まず、禁止令が実在したことは疑いない。当時ヴァン・ディーメンズ・ランドと呼ばれたこの島で、蒸留を禁じる法(Distillation Prohibition Act)が1838年に可決され、1839年1月から施行されている。
広く語られているのは、こんな逸話だ。総督ジョン・フランクリンの妻ジェーンが「大麦は豚に食べさせたほうがまし。男を豚に変えるくらいなら」と言い、それを聞いた夫が蒸留を禁じた——。ラーク蒸溜所の公式サイトにも、州の観光公式サイトにも、この一言が引かれている。
もっとも、この逸話を同時代の記録で確認できたわけではない。『ウイスキー・マガジン』がタスマニアの通説を検証した記事では、禁止を可決したのは総督個人ではなく立法評議会であり、蒸留をめぐる調査はフランクリンが着任する前から始まっていた、と指摘されている。
背景として挙げられているのも、もっと散文的な事情だ。粗悪な地酒を実質的に優遇していた酒税の格差が濫用されていたこと。その地酒を輸入酒に混ぜて売る商売が横行していたこと。要するに、産業として管理しきれていなかった。
総督夫人の一言が島の産業を止めた、という筋書きは、語りとしてはよくできすぎている。
通説どうしが、食い違っている
噛み合わなくなるのは、ここからだ。
この禁止令は1847年に廃止されたとする記述が、複数の資料に見られる。事実なら、法律が島の蒸留を禁じていたのは153年ではなく、8年ほどということになる。
さらに妙なことがある。タスマニアの蒸溜所カリントン・ミルの公式サイトは、1839年の全面禁止を紹介し、禁止は1992年まで続いたと書いたうえで、同じページの中でラーク蒸溜所を「1882年以来、タスマニア初の合法的な蒸溜所」と紹介している。
この二つはうまく重ならない。1839年から一貫して全面禁止だったのなら、1882年に合法な蒸溜所が存在していたことにはならないからだ。かといって「1882年以来初」を採れば、今度は1847年廃止説と35年ずれる。しかも前述の『ウイスキー・マガジン』は、植民地時代のタスマニアの蒸溜所を計8つと数え、その大半は1830年代に2年と持たずに消えたとしていて、1882年に稼働していた蒸溜所を認めていない。
三者三様である。「153年間の禁止」という物語は、業界の内側ですら年表が揃っていない。
本土では、スコッチ最大手が普通に造っていた
島の外に目を移すと、話はもっとはっきりする。
1929年3月、ビクトリア州ジーロングでコリオ蒸溜所が稼働を始めた。建てたのはスコットランドのディスティラーズ・カンパニー・リミテッド(DCL)。のちにギネス傘下へ入り、いまのディアジオ——世界最大の蒸留酒メーカー——へとつながる会社である。DCLはその後、地元のフェデラル・ディスティラーズの支配株を取得し、ユナイテッド・ディスティラーズを形成した。
コリオは売れた。1959年までに「コリオ5スター」は850万本以上を売り、最終的な蒸留が行われたのは1979年と1980年である。
つまり「空白」とされる153年の真っ只中で、スコッチの最大手がオーストラリアでウイスキーを造り、瓶に詰め、売っていた。
もちろん、これだけで矛盾が確定するわけではない。1839年の禁止は島の法であって、のちにビクトリアとなる本土側には及ばない。両立はする。
ただ、この物語はしばしば島の外まで拡張されて語られる。ラーク蒸溜所の公式サイトは「1992年、ラーク家は154年ぶりにシングルモルトのスピリッツを造ったオーストラリアの蒸溜所となった」と書く(禁止の起点を法案可決の1838年に取れば154年、施行の1839年に取れば153年になる)。オーストラリア全体を対象にした、しかし「シングルモルト」という限定つきの主張である。
そして『ウイスキー・マガジン』は、1820年代から1990年代初頭まで数十のオーストラリアの蒸溜所がモルトウイスキーを造り、多くのブランドを売っていた、とも書いている。モルトウイスキーを蒸留することと、それを単一蒸溜所のシングルモルトとして製品化することは別の話だが、この限定がどこまで持ちこたえるかは、けっして自明ではない。
では、何が島を止めていたのか
禁止が早くに解けていたのなら、なぜ島はその後も長くウイスキーを造らなかったのか。
先に断っておくと、1847年から1901年までの半世紀が何によって埋まっていたのかは、今回参照した資料では特定できなかった。『ウイスキー・マガジン』が挙げているのは、法律ではなく商売の条件のほうだ——人口が少なく、蒸留業に投じる資本も乏しく、そこへ本土の蒸溜所と輸入酒との競争がのしかかった。禁止が解けても、島で酒を蒸留する理由がなかった、ということになる。
制度の側がはっきりするのは、1901年からである。この年オーストラリアは連邦として発足し、蒸留の規制は連邦のDistillation Act 1901の管轄に移った。酒類への課税権も、あわせて連邦に集約されている。
そこで待っていたのは、禁止ではなく規模の条件だった。現行に伝わる条文の文言では、蒸留免許はウォッシュスチル(初留釜)に2,700リットル以上の容量を求めている。加えて、蒸溜所には税関の職員が張りつく体制が前提になっていた。徴税の効率を考えれば、大きく造る者だけを相手にするほうが合理的だったのだろう。
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