なぜブラックニッカのラベルには「ヒゲのおじさん」が描かれているのか——「キング・オブ・ブレンダーズ」の正体と、消えない別人説
スーパーの棚から見つめるあのヒゲの紳士には「キング・オブ・ブレンダーズ」という名がある。モデルとされる19世紀グラスゴーの原酒商と、いまだ決着しない「別人説」をたどる。
スーパーやコンビニの棚に並ぶウイスキーのなかで、あの顔だけは妙に記憶に残ります。ブラックニッカのラベルに描かれた、豊かなヒゲをたくわえた紳士。グラスと麦を手にして、こちらをじっと見ている。日本でもっとも見慣れたウイスキーの「顔」のひとつでありながら、彼が誰なのかを知っている人は、意外なほど少ないのではないでしょうか。
この記事では、あのヒゲの紳士の正体と、ニッカが半世紀以上も彼を描き続けてきた理由をたどります。先に言っておくと、彼の正体には「有力な説」と「未解決の謎」が両方あります。
彼の名は「キング・オブ・ブレンダーズ」
まず、彼にはちゃんと名前があります。ニッカウヰスキー自身が呼ぶその名は「キング・オブ・ブレンダーズ」——ブレンドの王様。
そしてこのヒゲの紳士には、モデルとされる実在のスコットランド人がいます。グラスゴーでウイスキーの原酒を扱ったW.P.ローリー(ウィリアム・ファウプ・ローリー)です。1831年生まれとされ、1916年に世を去りました。
グラスゴーで原酒を握っていた男
ローリーは銀行勤めを経て、アイラ島のポートエレン蒸留所の運営と販売に関わるようになります。1869年にはグラスゴーで自らブローカー業を興し、やがてスコットランド有数のウイスキー原酒の保有者となりました。
彼の名が残っているのは、単なる仲買人ではなかったからです。まだ無名だった若きジェームズ・ブキャナンに資金を貸し、原酒を供給し、ロンドンの嗜好に合うブレンドを実際に組み立てたのがローリーでした。看板はブキャナンの名でしたが、中身をつくったのは彼だった、というわけです。
さらに彼は、樽そのものに手を入れた人でもありました。シェリーの名門ゴンザレス・ビアス社のスコットランド代理店を務め、アメリカの森で樽材を規格寸法に製材させて運び、グラスゴーで組み上げる。そして中身を入れる前に、樽をシェリーで「仕込んで」おく——蒸気の圧力でシェリーを樽材に染み込ませるこの手法は、1890年に彼が取得した特許でした。いまも高価なシェリー樽ウイスキーの背後にある「シェリーで仕込む」という発想の、遠い出発点です。
1906年、そのブキャナンが彼の会社を買い取ります。かつて資金を借りにきた若者に、最後は会社ごと引き継がれたわけです。1916年に彼が世を去ったとき、追悼記事は彼を「近代的なブレンド手法を最初に用いた人物」と評しました。
ただし、確かなことは分かっていない
ここで正直に書いておくべきことがあります。「ラベルの人物はW.P.ローリーである」とニッカが公式に断定しているわけではなく、これはあくまで有力な説です。
しかも、英語圏の資料を当たった研究者からは疑問も出ています。ローリーが「キング・オブ・ブレンダーズ」と呼ばれていた記録が英語の文献に見当たらないこと。日本で「ローリー卿」と紹介されることがあるのに、爵位の記録がないこと。そして何より、ラベルの男の服装が19世紀のものではなく、もっと古いチューダー朝風に見えること。
そこから、別人と混同されたのではないかという説も浮かびます。カタカナで書けば同じ「ローリー」になる、サー・ウォルター・ローリー(Sir Walter Raleigh)です。エリザベス朝の廷臣で、ロンドン塔に幽閉されていた間に蒸留酒をつくったという伝説を持つ人物。ヒゲの風貌も時代の衣装も、たしかにそちらに近い。
決着はついていません。日本でもっとも見慣れたラベルの一枚に描かれた人物が、実は誰なのかはっきりしない——そのこと自体が、なかなか面白い話だと思います。
竹鶴政孝が、自分の顔を描かなかった理由
ニッカの創業者・竹鶴政孝にとって、ローリーは理想のウイスキーづくりを体現する存在だったと伝えられています。ブレンドの大切さを一枚の絵で示すために、この「王様」が選ばれた。
もっとも、竹鶴本人がローリーに会うことはありませんでした。竹鶴がスコットランドへ渡ったのは1918年。ローリーはその2年前に亡くなっています。憧れは、書物と伝聞の向こう側にありました。
面白いのは、竹鶴自身も立派なヒゲの紳士だったことです。「あれはあなたですか」と問われた竹鶴は、自分の顔をラベルに出すほど厚かましくはない、だいたいあの男は青い目じゃないか——という趣旨の言葉で笑って否定したと伝えられます。
1956年の「特級」と、1965年の転換
初代ブラックニッカが世に出たのは1956年。余市の原酒が十分に育つのを待って、当時の酒税法の級別制度で最高位にあたる「特級」として発売されました。竹鶴が「日本の洋酒界を代表するブランドに」と願った一本です。
ただし、キング・オブ・ブレンダーズがレギュラー商品のラベルに座ったのは、この初代ではありません。1965年、国産のカフェグレーン原酒を配合した「新ブラックニッカ」からだとされています。このとき等級は特級から一級へと下がりました。格を落としたのではなく、もっと多くの人の手が届く場所へ降りていった、ということです。
カフェグレーンとは、古い形式の連続式蒸留機で造られる、軽やかで甘みのあるグレーンウイスキーのこと。現代の装置に比べると効率は劣りますが、そのぶん原料の風味が残りやすいのが持ち味です。ニッカはこの原酒を自前で持ち、モルトとどう噛み合わせるかという配合の設計を、商品の前面に押し出しました。ラベルの王様は、その宣言でもあったと読めます。
そのカフェグレーンの味を単体で確かめられるのが、いまも売られているこの一本です。
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