なぜ日本のウイスキー広告は、酒そのものより「飲む人」を描いてきたのか——まだ観光で海外へ行けない国で「Hawaiiへ行こう」と言った宣伝部
1961年、日本人はまだ観光で海外へ行けなかった。それでも寿屋は「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」と広告を打つ。芥川賞作家と直木賞作家がいた宣伝部から、日本のウイスキー広告が売ってきたものをたどる。
1961年9月11日の新聞に、全面カラーの広告が出た。アロハシャツを着てレイをかけた中年男が、ハワイの地図を背に立っている。「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」
その日、日本人は観光目的で海外へ行くことができなかった。
外貨の持ち出しが厳しく制限されていた時代である。一般の人が観光で出国できるようになるのは1964年4月1日、それも「一人年1回・500ドルまで」という条件つきだった。つまりこの広告は、まだ観光では行けない場所へ客を誘っていたことになる。
もちろん、日本のウイスキー広告がいつも酒の話を避けてきたわけではない。トリスはそもそも「うまい、やすい」を掲げて広まった銘柄だ。味と値段の直球である。それでも、いま語り継がれている一行のほうを並べてみると、そこには不思議な共通点がある——酒そのものより、それを飲んでいる人が描かれている。
この記事では、その癖がどこで身についたのかをたどってみたい。
宣伝部に、芥川賞作家と直木賞作家がいた
まず、当時の寿屋(現・サントリー)宣伝部の顔ぶれを見てほしい。
開高健は1954年に入社し、宣伝部に配属された。在職中の1958年、『裸の王様』で第38回芥川賞を受賞している。
山口瞳が入社したのは、その同じ1958年の3月。31歳だった。推薦したのは、当時PR誌『洋酒天国』の編集長をしていた開高である。山口も在職のまま1963年、『江分利満氏の優雅な生活』で第48回直木賞を受賞した。
そして柳原良平。開高と同じ1954年に、京都市立美術大学を出て入社している。冒頭のアロハ姿の中年男「アンクルトリス」を造形した人物だ(このキャラクターの生い立ちはなぜトリスは戦後から今も「日本人の最初のウイスキー」であり続けるのかで書いた)。
芥川賞と直木賞の受賞者を、同じ会社の同じ部署から、五年のあいだに出している。ここが、日本のウイスキー広告の出発点だった。
酒を売る前に、読み物を配った
その宣伝部が何をしていたか。象徴的なのが、開高が専務の佐治敬三に提案して1956年4月に創刊したPR誌『洋酒天国』である。
B6判で40ページ前後の小さな冊子。1950年代を通じて全国に広がった「トリスバー」のカウンターに置かれ、客が無料で持ち帰った。創刊時の発行部数は2万部ほどだったが、最盛期には20万部に達したという。国立情報学研究所の総合目録によれば、1964年2月の第61号まで出ている。
中身は、ウイスキーの解説書ではない。作家や文化人のエッセイ、対談、紀行、漫画、雑学。宣伝色の薄さこそが評判を呼び、「夜の岩波文庫」とまで呼ばれた雑誌だった。編集発行人は開高、絵は柳原、アートディレクションは坂根進、編集には山口も加わっている。
酒場で酒を売るのではなく、酒場で読むものを配る。この順番が、後の日本のウイスキー広告の性格を決めたように思える。
その冊子が置かれていたカウンターで飲まれていたのが、トリスである。いまのトリス〈クラシック〉は当時とまったく同じ中身ではないが、37度という軽さは、あの店で何杯も重ねられた酒の系譜にある。
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