なぜ鳥井信治郎は、誰も信じなかった日本のウイスキーに賭けることができたのか——赤玉で稼ぎ、貧しい町に診療院を開いた男
山崎蒸溜所に金を出したのはサントリー創業者・鳥井信治郎だった。13歳の丁稚奉公で覚えた「調合」、赤玉ポートワインの成功、白札の失敗、そして同じ手で開き続けた無料の診療院。竹鶴政孝の影に隠れがちな、もう一人の主役をたどる。
日本のウイスキーの物語を語るとき、主役はたいてい竹鶴政孝になる。スコットランドで学び、ノートを持ち帰り、余市を選んだ技師。朝ドラにもなった、わかりやすい主人公だ。
だが、その竹鶴に「うちで蒸溜所を建ててくれ」と声をかけた男がいる。鳥井信治郎(1879–1962)。サントリーの創業者であり、日本で最初の本格ウイスキー蒸溜所に金を出した人物である。
彼がいなければ、山崎は建たなかった。にもかかわらず、その生涯は竹鶴ほど語られてこなかった。この記事では、一人の商人がどうやって「誰も信じなかった酒」に賭けることができたのかをたどってみたい。
13歳の丁稚が覚えたのは、「混ぜる」技術だった
信治郎は1879年1月30日、大阪の商家に生まれた。1892年、13歳で道修町の薬種問屋・小西儀助商店へ丁稚奉公に出る。
ここが、のちの彼を決定づけた。当時の薬種問屋は薬だけでなく洋酒も扱っており、少年はそこで「材料を合わせて味と香りをつくる」調合の仕事を覚えていく。三年ほどで染料を扱う別の店へ移るが、この修業で身につけた調合の勘が、彼の商売の芯になった。
蒸留の技師としてではなく、調合師として洋酒の世界に入った——これが鳥井信治郎という人の出発点である。日本のウイスキーの父が「スコットランドで蒸留を学んだ技師」なら、その父を招いた男は「大阪の店先で香りを合わせていた商人」だった。
赤玉ポートワイン——「日本人の舌に合わせる」という発想
1899年、20歳で独立して鳥井商店を興す。当初は輸入洋酒を売っていたが、そのままでは日本人に受けないことを彼は肌で知っていた。
1906年に「向獅子印甘味葡萄酒」を出すが、これは大きくは伸びなかった。改良を重ねて翌1907年4月に発売したのが、赤玉ポートワインである。輸入したワインに甘味と香りを足し、当時の日本人が「うまい」と感じる味へ寄せた甘口の酒だった。
これが当たった。1920年には月産2万ダースに達するまでになり、鳥井の商売の土台をつくる。
広告もまた大胆だった。1922年に撮影された、赤玉楽劇団のプリマドンナ・松島栄美子を起用したポスターは、日本初のヌードポスターとされ、ドイツで開かれたポスターの品評会で1等に選ばれたと伝えられる。
つまり彼は、ウイスキーに手を出す前にすでに、「日本人の好みに合わせて味をつくる」ことと「派手に売る」ことの両方で成功していた。この二つは、のちのウイスキー事業でそのまま繰り返される。
1923年、山崎——反対を押し切った先へ
そして1923年、信治郎は大阪と京都の境、天王山のふもと、山崎の地に蒸溜所の建設を始める。技師として招いたのが、スコットランド帰りの竹鶴政孝だった。
当時、国産の本格ウイスキーは存在しない。蒸留した原酒が売り物になるまでには、短くても数年、長ければ十年に及ぶ歳月がかかる。売上の柱である赤玉で稼いだ金を、いつ回収できるとも知れない蒸溜所に注ぎ込む——役員たちが反対したと伝えられるのも無理はない。
それでも彼は建てた。着工から最初の製品が世に出るまでには、実際に五年半かかっている。誰かが先に金を置くまで、日本のウイスキーは始まらなかったのだ。
白札の失敗と、「合わせる」への回帰
1929年、山崎の原酒から国産初の本格ウイスキー「サントリーウヰスキー白札」が世に出る。
ところが売れなかった。本場に寄せたスモーキーな風味が「焦げ臭い」と受け取られたうえ、熟成もブレンドの技術もまだ足りなかったと伝えられている。

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