なぜジュラは、住民258人・鹿5,000頭の島でウイスキーを造り続けるのか——オーウェルに家を貸した地主が、仲間と廃墟から建て直した蒸溜所
アイラの隣、人ひとりに鹿20頭近くという島ジュラ。1901年に操業を止めた蒸溜所を1963年に建て直した地主のひとりは、『1984年』を書くジョージ・オーウェルにバーンヒルを貸した人物だった。島を残すために建て直された蒸溜所の物語。
スコットランド西岸、アイラ島のすぐ北東に、細長い島がある。ジュラ島。2022年の国勢調査で数えられた住民は258人。島を走る道は一本きりで、集落と呼べるのは東岸のクレイグハウスだけだ。そこに商店とホテルと、島でただ一軒の蒸溜所が集まっている。
棚で見かける「ジュラ」の一本は、そこで造られている。
考えてみると、これはかなり不思議なことだ。大麦も樽も瓶も、すべて船で運び入れなければならない。効率だけで土地を選ぶなら、まず候補に挙がらない場所である。それでもこの蒸溜所は、半世紀以上も廃墟だったあとに、わざわざ建て直された。誰が、何のために建て直したのか——その答えのなかに、『1984年』を書いた作家の名前が出てくる。
住民より、鹿のほうがはるかに多い
ジュラという名は、古ノルド語で「鹿の島」を意味するという説が知られている(語源には諸説ある)。呼び名にふさわしく、島の赤鹿はおよそ5,000頭規模で推移していると、地元の鹿管理団体は説明している。人がひとり暮らすかたわらに、鹿が20頭近くいる計算になる。
本土から渡るには、ふつうアイラ島を経由してフェリーを乗り継ぐ。島に大きな産業はなく、農業と鹿猟の管理、それに観光が細く続いてきた。働き口が限られるこの島にとって、蒸溜所は「観光の目玉」である前に、賃金の出る職場そのものだった。そして再建の動機も、まさにそこにあった。
「持ち出せるものは、持ち出された」
蒸溜所の創業は1810年。島の領主だったアーチボルド・キャンベルが建て、当初はスモール・アイルズ蒸溜所と呼ばれた。正式に免許を得たのは1831年である。
19世紀後半に運営を担ったのがジェームズ・ファーガソン&サンズだったが、1901年に操業は止まる。領主の代替わりをめぐって関係がこじれ、ファーガソン側は持ち出せるかぎりの設備を剥がして島を去ったと伝えられる。やがて屋根も落ち、建物は廃墟になった。
以後、60年以上にわたってこの蒸溜所は沈黙する。
島の人口も、19世紀を通じて減り続けていた。1831年には1,300人を超えていたと記録されているが、1950年代の終わりには250人ほどまで落ち込んでいたという。人口減そのものは蒸溜所の閉鎖よりずっと前から始まっていた。ただ、島に働き口が乏しいことが、次の世代が島に残れない理由になっていた——それが当時の切実な問題だった。
蒸溜所を建て直した地主のひとりは、オーウェルに家を貸した人物だった
この流れを止めようとしたのが、島の地主だったロビン・フレッチャーと、同じく地主のトニー・ライリー=スミスである。二人は1960年から蒸溜所の再建に着手し、1963年に操業を再開させた。
そのうちのフレッチャー家には、もうひとつの顔がある。
1946年5月、島の北の端に建つ「バーンヒル」という農家を、フレッチャー家は一人の作家に貸した。エリック・ブレア——ジョージ・オーウェルである。
電気も湯も通らず、最寄りの商店まで数十キロという家で、オーウェルは最後の長編に取りかかった。1947年8月には、ジュラ島の北端とスカーバ島のあいだで渦巻くコリーヴレッカンでボートが遭難し、幼い息子を含む一行が岩場に取り残されている。通りかかった漁師に助けられなければ、『1984年』は書かれずに終わっていたかもしれない。
その年の暮れには結核と診断され、本土の病院で半年あまりを過ごした。島へ戻ってからは、血を吐きながらベッドの上でタイプライターを叩いた時期もあったと伝えられる。原稿が仕上がったのは1948年の暮れ。翌1949年1月に島を離れ、6月に『1984年(Nineteen Eighty-Four)』が世に出て、翌年1月、46歳で亡くなった。
作家に家を貸した地主が、その十数年後に、廃墟だった蒸溜所を建て直す側に回った。ジュラの一本の背景では、この二つの出来事が同じ島の、同じ一家の手でつながっている。
なぜアイラの隣なのに、煙が薄いのか
再建の設計を託されたのは、ウィリアム・デルメ=エヴァンス。タリバーディンを手がけ、のちにグレンアラヒーにも関わった人物だ。
彼がジュラに据えたスチルは、高さが7メートルを超える。スコットランドでも屈指の背の高さで、グレンモーレンジィと並び称されることが多い。
これは偶然ではなく、狙いのある選択だった。スチルが高いほど、蒸気は上りきる前に冷えて落ち、また熱される——還流が増えて、銅と触れる時間が長くなる。結果として重い成分が上まで届かず、軽やかで澄んだ酒質になる。
デルメ=エヴァンスが目指したのは、目と鼻の先にあるアイラのような重厚なピーテッドではなく、ハイランドのモルトに近い軽さだった。海峡を挟んだ対岸には、カリラのスチルハウスがジュラを望んで建っている。距離にすればわずかなのに、酒の方向はまるで違う。

このコラムの関連
次に読む

なぜ蒸溜所は、酒を造る工場なのに見学者を招き入れるようになったのか——1969年に開いた一枚の扉と、年270万件の訪問
蒸溜所はもともと、一般客に語る動機がない場所だった。1969年にグレンフィディックが開いた受付棟から、年270万件の訪問を集める産業へ。蒸溜所見学が生まれた理由と、日本の人気蒸溜所で製造現場が抽選制になった事情をたどる。

なぜジョニーウォーカー ブルーラベルは、年数表記がないのに「最高峰」なのか——初期ボトルに刷られた「15〜60年」と、静かに消えた一行
ブラックラベルは「12年」と刻むのに、シリーズの頂点に立つブルーラベルには年数がない。1987年に「オールデスト」として生まれた一本の、初期ラベルに刷られていた「15-60年」という一行の行方をたどる。







