なぜ三か月のはずのタイピストが、蒸溜所の主になったのか——遺言状が遺したのは、会社と屋敷と、島ひとつだった
三か月のつもりでアイラ島へ渡った臨時タイピストが、雇い主の遺言で蒸溜所の会社を受け取った。戦時は弾薬庫を守り、のちに業界の広報役として北米を回り、そして自ら株を手放したベッシー・ウィリアムソン。20世紀のスコッチで「唯一」とも「初」とも紹介される女性蒸溜所主の38年をたどる。
1954年、アイラ島南岸の蒸溜所で20年働いてきた女性が、雇い主の遺言状の中身を知らされた。
遺されたのは、現金5,000ポンド、蒸溜所を営む会社の支配株、海を見下ろす屋敷、そして沖に浮かぶ小さな島がひとつ。
女性の名はベッシー・ウィリアムソン。20年前、三か月だけのつもりで島へ渡ってきた、臨時の速記タイピストだった。
ラフロイグという蒸溜所は、たいてい「正露丸のような香り」から語られる(その話はなぜラフロイグは「正露丸」と言われながら英国王室御用達なのかにまとめた)。ここで追うのは、その香りを絶やさずに次の時代へ渡した人物のほうだ。彼女が何を守り、何を仕掛け、最後に何を手放したのかを順に見ていく。
三か月のつもりで、島へ渡った
エリザベス・リーチ・ウィリアムソン——通称ベッシーは、1910年8月22日、グラスゴーに生まれた。父は第一次世界大戦で戦死している。
1927年にグラスゴー大学へ進み、1932年に文学系の学位を得た。MA(Master of Arts)という名前がついているが、スコットランドの古い大学ではこれは学部の第一学位、日本でいう学士にあたる。目指していたのは教師で、ウイスキーとは縁もゆかりもない。ただ、就職の当てを増やすために夜学で速記とタイプを習っていた。この保険が、彼女の進路をまるごと決めることになる。
1934年の夏、友人とアイラ島へ休暇に出かけた先で、ラフロイグ蒸溜所が臨時の速記タイピストを探していることを知る。23歳。三か月ほどの腰かけのつもりだった。
雇い主のイアン・ハンターは、1908年にこの島へ来た人物である。1907年にラフロイグを引き継いだ姉妹の一方、イザベラ・ハンターの息子で、母と叔母が世を去ったあと、1927年ごろに単独の所有者となった(年については1928年とする資料もある)。1924年にスチルを2基から4基へ増やし、アメリカ視察をきっかけにバーボンの空き樽をいち早く熟成に使い始めた——いまのラフロイグの骨格をつくった造り手だ。
その事務所で、彼女は雑務から始めた。
経営者が倒れ、そのあとに戦争が来た
1938年、ハンターが脳卒中で倒れる。車椅子の生活になり、それまで自ら飛び回っていた販売の仕事が回らなくなった。ベッシーはアメリカ向けの取引を引き受け、事務所の外側の仕事へ踏み出していく。
そこへ戦争が来た。
第二次世界大戦下の英国では、大麦は何よりまず食料だった。モルトウイスキーの蒸溜は制限され、やがて全面的に止まる(この時期の事情はなぜ二度の大戦で、ウイスキーは造れなくなったのかに詳しい)。酒を造れない蒸溜所は、軍にとっては海辺の頑丈な倉庫でしかない。ラフロイグには軍が入り、弾薬庫として使われた。積み上げられた弾薬は400トンを超えたと伝えられている。
酒を造らない数年間、彼女がやっていたのは、実質的に建物と在庫を守ることだった。軍の物資の出入りをさばきながら、熟成中の樽が置かれた区画には兵士を入れさせない。倉庫番のイアン・マクリーンに召集がかかったときには、この人物は余人をもって代えがたいと陸軍省に掛け合い、兵役を免除させている。
蒸溜の再開が見えてきた1944年、ハンターは正式に経営を彼女へ委ねた。1950年、D・ジョンストン社が有限会社になると、彼女はカンパニー・セクレタリー(英国の会社法上の役職で、社長付きの秘書とは別物だ)に就き、わずかながら株も持った。
タイピストとして雇われてから、16年が経っていた。
遺言状が指名した人
1954年、ハンターが世を去る。子はなかった。
遺言状が指名したのは、ベッシー・ウィリアムソンだった。現金5,000ポンド、会社の支配株、屋敷のアーデニスティール・ハウス、そして沖のテクサ島。
こうして彼女は、スコッチの蒸溜所を所有して経営した女性としては、19世紀のエリザベス・カミングに続く二人目——そして20世紀では最初の一人になった。
もっとも、紹介のされ方は資料によって割れている。ラフロイグ公式などは「20世紀に初めて」と書き、別の資料は「20世紀で唯一」と書く。どちらが正確かはさておき、この割れ方そのものが事情を語っている。20世紀のスコッチで、蒸溜所を持って回した女性の名前を、ほかに挙げるのが難しいのだ。
19世紀のスペイサイドには、夫を亡くしたあとカーデュを一から建て直したエリザベス・カミングがいた(なぜカーデュは、密造の丘からジョニーウォーカーの「故郷」になったのか)。家業を女性が担うこと自体は、当時それほど珍しくない。筆者の見立てにすぎないが、家業が会社組織へ組み替えられていく過程で、こうした席は埋まり方を変えたのだろう。ベッシーは、その世紀にほとんど一人だけ残った例外だった。
守るだけの人ではなかった
ここから先が、この人の面白いところだ。
自社の販売は、1938年以降ずっと彼女の担当だった。相続後もその線は太くなっていく。そこへ1961年、スコッチウイスキー協会(SWA)が彼女を海外広報担当に起用する。1964年まで、北米を回ってスコッチを語る役目だった。ラフロイグの営業ではなく、業界全体の顔として立つ仕事である。アイラの小さな蒸溜所の経営者が、そこに選ばれた。
当時、シングルモルトはまだ商品としての地位を確立していない。ほとんどの原酒はブレンデッドの材料として消えていき、蒸溜所の名前で売られる一本は例外的な存在だった。ましてアイラのモルトである。
1960年代の記録映像に、彼女のこんな趣旨の言葉が残っている。アイラのウイスキーはそれ単体では多くの人には強すぎる、けれど "liqueur whisky" として好む人もいる、と。この "liqueur whisky" は当時の言い回しで、いまの日本語にうまく移せない。それでも、強すぎると認めたうえで、その強さを面白がる客のほうを探しに行く構えは伝わってくる。いまのラフロイグの立ち位置は、この延長線上にある気がしてならない。
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