ウイスキーはなぜ、ワイン産地が捨てたコルクへ逆に寄っていったのか——1兆分の1のにおいと、ニュージーランドの20年
濡れた段ボールのようなにおい。ワインで「ブショネ」と呼ばれる現象の原因物質TCAは、水1,000トンに1ミリグラムの濃度で香りの評価を押し下げる。ニュージーランドは栓を替え、ウイスキーはコルクを守る道を選んだ。
「濡れた段ボール」のにおいがする一本
楽しみにしていたボトルを開け、グラスに注いで鼻を近づけた瞬間、湿った段ボールか、長く閉め切った押し入れのようなにおいが立ち上がる。ウイスキーらしい甘さや華やかさは、どこかへ行ってしまっている。
ワインを飲む人なら、この症状に名前があることを知っている。ブショネ——コルク栓を意味するフランス語 bouchon から派生した形容詞 bouchonné の音写で、英語では corked と言う。レストランでソムリエが注文した人に一口味見させる作法も、コルク由来の異常などをその場で確かめるための手続きとされている。
ではウイスキーではどうなのか。同じことは起きるのか。起きるとしたら、どれくらいの頻度なのか。
答えを先に書いておく。起きる。ただし、どれくらいの頻度で起きるのかを示す数字は、見当たらない。 ワインの側にはこの現象を測ろうとしてきた数十年分の研究があり、ウイスキーの側にはそれが積み上がっていない。この記事は、その非対称の話である。
犯人はコルクではなく、コルクの中で作られた分子
まず誤解を解いておくと、ブショネは「コルクが古びた」現象ではない。原因は 2,4,6-トリクロロアニソール(TCA) という一つの分子だ。
でき方はこうなっている。木にはもともとフェノール類が含まれている。そこへ塩素を含む物質——かつて広く使われた塩素系の漂白剤をはじめ、殺菌剤や木材防腐剤、農薬など——が触れると、クロロフェノールができる。これを、木や樹皮に普通にいるカビや細菌が代謝の過程でメチル化すると、TCAになる。
大事なのは、この舞台がコルク栓に限られないことだ。同じような反応は樽材でも、輸送用の木製パレットでも、段ボール箱でも起こりうる。よく似たふるまいをする兄弟分子のTBA(2,4,6-トリブロモアニソール)——こちらは塩素ではなく、難燃剤や防腐剤に使われる臭素系の化合物が前駆体になる——にいたっては、オーストラリアワイン研究所(AWRI)によれば、樽やコルクだけでなくワイナリーの壁・床・天井といった木造構造物や、建物の空気からも検出されている。
つまりこれは「栓の問題」というより、木とハロゲン系の薬剤と湿気がそろった場所の問題だ。酒を造り、貯蔵し、運ぶ工程には、その条件がほぼ全域にある。石造りで土間のダンネージ式熟成庫のように湿気を抱えた空間は、ウイスキーづくりがむしろ積極的に選んできた環境でもある。カビが生えること自体は、この世界では異常事態ではない。
念のため付け加えると、瓶や樽の液の中でカビが増えているわけではない。反応が進むのは木材や樹皮の側で、高い度数のアルコールのなかで菌は生きられない。液のほうへ移って生き残るのは、菌が作り終えたTCAという分子だけだ。
「水1,000トンに1ミリグラム」という桁
TCAが厄介なのは、量が常識外れに少なくても効いてしまう点にある。
AWRIがまとめているところでは、ある研究がピノ・ノワールでの香りの閾値を 1.4 ng/L としている。プレスコットらの2005年の研究では、消費者がTCAを検出できる濃度が 2.1 ng/L、「これは受け入れられない」と拒否する濃度が 3.1 ng/L と報告された。AWRIのテイスターのなかには、1 ng/L未満でも嗅ぎ分ける人がいる。
ng/L(ナノグラム毎リットル)と言われてもぴんと来ないが、水に置き換えれば 1,000トンに1ミリグラムという濃度である。重量比でいえば1兆分の1だ。AWRIはTCAを「知られているなかで最も匂いの強い化合物のひとつ」と書いている。
においが「する」より先に、においが「消える」
ここからが、飲み手にとっていちばん実用的な話になる。
AWRIの記述に、こういう一節がある。わずか1 ng/LのTCAが、ある試験に使われたセミヨンの「全体の香りの強さ」と「果実由来の良い香り」の評価を押し下げた。
消費者が検出できるとされた2.1 ng/Lよりも、さらに低いところで起きている出来事だ。ここから素直に読めるのは、TCAは必ずしも最初から自分のにおいを主張するわけではない、ということである。誰が嗅いでもカビ臭いと分かるレベルは、症状としてはかなり進んだ段階で、その手前には「なんだか香りが弱い」「開いてこない」「前に買ったときはもっと華やかだった気がする」という、自分の体調や気分のせいにしてしまいがちな領域が広がっていると考えられる。
華やかな銘柄ほど、失うものは大きい。洋梨や花のような軽い香りを身上とするグレンモーレンジィ オリジナル 10年やグレンフィディック 12年は、繊細な香りの層を薄く積み上げているぶん、その層が削られたときの落差がはっきり出る。
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