なぜJ&Bは「イタリア人の恋」から始まったといわれるのか——ロンドンのワイン商が、禁酒法明けのアメリカに「淡いスコッチ」を送るまで
J&Bの「J」は、1749年に歌手を追ってロンドンへ来たとされるボローニャの青年の名前。ワイン商がなぜ禁酒法明けのアメリカ向けに淡く軽いブレンドを作ったのか、その中身を支えるスペイサイドの蒸溜所まで、二文字の由来をたどります。
赤い「J&B」の二文字に、黄色いラベル。千円台で買える、軽くて飲みやすいブレンデッドスコッチの定番です。
ところがこの「J」と「B」が誰の頭文字なのかは、意外と知られていません。Jは、18世紀のロンドンにやって来たイタリア人の名前。しかも彼がロンドンへ来た理由は、ウイスキーでもワインでもなく、ひとりのオペラ歌手だったと伝えられています。
この記事では、J&Bの名前の由来から、ワイン商がなぜ「淡いスコッチ」を作ったのか、そしていまの中身がどこから来ているのかまでを、順にたどります。
Jは、歌手を追ってきたボローニャの青年
物語は1749年に始まります。ボローニャ出身の青年ジャコモ・ジャスティリーニ(Giacomo Justerini)が、ロンドンへやって来ました。
ブランドに伝わる話では、彼はイタリアの歌手マルゲリータ・ベリーノに恋をしていて、ロンドンのオペラに出演する彼女を追って海を渡った、とされています。ボローニャでは、蒸溜酒やリキュールを造る叔父の仕事を手伝っていたといいます。
恋の行方は記録に残っていません。ただ、ロンドンでジャスティリーニはジョージ・ジョンソンという相棒を得て、ペル・メル街でワインと酒を扱う商売を始めます。これが「ジョンソン&ジャスティリーニ」です。
この恋物語は、あくまでブランド側が語り継いできた伝承です。歌手の名前の綴りも資料によって揺れます。一方で、1749年にロンドンで商売を始めたこと自体は、複数の資料で一致しています。
Bは、80年後に店を買った人
店は順調に育ち、1761年には最初の王室御用達(ロイヤル・ワラント)を得たとされます。ところが当のジャスティリーニは、そのころにはもう店を離れ、財を成してボローニャへ帰っていました。
店はジョンソン家に引き継がれ、1831年にアルフレッド・ブルックスが買い取ります。ここで屋号が「ジャスティリーニ&ブルックス(Justerini & Brooks)」になりました。
つまりJ&Bは、創業者と、80年後の買い手の名前を並べたものです。二人が店で顔を合わせることはありませんでした。
ちなみに同社は1779年の新聞広告で、すでに「ウスケボー(usquebaugh=ウイスキーの古い呼び名)」を扱っていたと記録されています。とはいえ、長いあいだ本業はワイン商でした。
禁酒法の終わりに、ワイン商が賭けたもの
J&Bが「ウイスキーの名前」になるのは、20世紀に入ってからです。
1920年、アメリカで禁酒法が始まります。同社の役員エディ・テイタムは、禁酒法はいずれ終わり、そのときスコッチには大きな市場が開けると考えました。そこで彼はブレンダーのチャーリー・ジュリアンを迎え、アメリカ人の舌に合わせたブレンドを作らせます。
こうして1930年代に生まれたのがJ&Bレアです。ブレンドの完成は1932年ごろとされ、発売年は資料によって1933年とも1936年ともいわれますが、禁酒法の撤廃(1933年)をにらんで用意された一本だったことは共通しています。
狙いは「淡い色、軽い味」でした。当時のアメリカでは、重いスコッチより軽いブレンドを好む流れが生まれつつあり、先行するカティサークも淡さを売りにしていました。カティサークの物語は別のコラムで書いたとおりです。J&Bは、その同じ市場に後から挑んだ形になります。
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