なぜアメリカは、憲法を書き換えてまで酒を禁じるに至ったのか——酒場を壊した女と、1913年に用意された「別の財布」
禁酒法は道徳の暴走として語られがちだが、1919年というタイミングを決めたのは連邦財政だった。歳入の3分の1を占めた酒税と、1913年に用意された所得税、そしてアメリカンウイスキーが失ったもの。
アメリカが酒を禁じた13年10か月は、たいてい「行きすぎた正義の物語」として語られる。斧を持った女、密造酒、ギャング。だが、それだけでは説明のつかないことがひとつある。
禁酒を求める運動は、1919年よりずっと前からあった。何十年ものあいだ、女性たちは酒場の前で祈り、署名を集め、州法を通してきた。にもかかわらず、連邦レベルの全面禁酒にはいっこうに手が届かなかった。それが憲法の条文になったのは1919年である。
なぜ、そのときだったのか。
変わったのは、運動の熱そのものではない。変わったのは二つ——その熱を議会の票に翻訳する機構と、酒税を手放しても国が回るという財政の前提だった。とりわけ後者は、酒とはまったく関係のない場所にある。国の財布だ。この記事では、禁酒法という「実験」を成立させた条件と、それがアメリカのウイスキーに何を残したのかを追う。
酒場を壊した女が立っていた場所
婦人キリスト教禁酒同盟(WCTU)が生まれたのは1874年。飲酒による家庭の困窮を、当時の女性がほとんど唯一使えた手段——祈り、説得、請願——で押し戻そうとした組織である。
この時代の象徴として、いまも名前が残っているのがキャリー・ネイションだ。1900年6月7日、カンザス州カイオワの酒場に押し入って店内を壊し、同年12月27日にはウィチタのケアリー・ホテルのバーを破壊した。翌月のトピカから、彼女は手斧を使い始める。
ここで見落とされがちなのは、カンザスがすでに「禁酒州」だったという点だ。法律で酒の販売は禁じられていたのに、酒場は堂々と営業し、当局は取り締まらなかった。彼女が壊したのは、合法な店ではなく、法が空文になった現場である。歴史家のマーク・ローレンス・シュラッドは、彼女が請願もピケも試し尽くしたうえでの行動だったと指摘し、ネイション自身の「投票権をくれなかったから、石を使うしかなかった」という言葉を引いている。彼女が「狂信者」の一言で片づけられてきたのは、後世の要約の側の問題だ。
とはいえ、である。この熱量は19世紀を通じて存在し続けたのに、連邦の全面禁酒は実現しなかった。壁のひとつは、道徳ではなく会計にあった。
酒税は、連邦政府のいちばん太い血管だった
19世紀の連邦政府には、恒常的な所得税がない。南北戦争のときに一度導入されたが戦後に廃止され、1894年に再び立法されたものの、翌1895年に最高裁が違憲と判断している。では何で国を運営していたかというと、関税と、酒やタバコにかかる内国消費税である。
数字で見ると偏りは異様なほどだ。1870年から1912年にかけて、酒への課税と関税を合わせると連邦歳入の3分の2を超え、年によっては75%を上回った。酒税だけを取り出しても、連邦歳入のおよそ3分の1にあたる。
つまり「酒を禁じる」とは、歳入の3割前後を自分で焼き捨てるという意味だった。どれだけ多くの有権者が禁酒を望もうと、財務を預かる側がうなずける話ではない。
ウイスキーと国家財政の癒着は建国期からのものだ。1794年には大統領が自ら軍を率いて現地へ向かい、ウイスキーの税に反発する農民の蜂起に対峙している(なぜアメリカ大統領は、ウイスキーの税のために自ら軍を率いたのか)。1875年には、蒸溜所に常駐する検定官ぐるみで酒税をかすめ取る大規模な汚職事件まで起きた(ウイスキーリング事件)。それだけ、この血管は太かった。
1913年、「別の財布」ができた
風向きが変わったのは1913年である。合衆国憲法修正第16条が批准され、所得への課税を州ごとの人口配分によらずに行えるようになった。議会はもともと課税権を持っていたが、この制約が外れたことで実際の立法が可能になり、同年秋の歳入法で連邦所得税が課される。
効果は急激だった。連邦歳入に占める所得課税(法人所得税や超過利得税を含む)の比率は、1916年のおよそ16%から、1918年には3分の2近くまで跳ね上がる。第一次世界大戦の戦費調達がこれを加速させ、1917年の秋には、議会は所得税を「主要な歳入源」とみなすようになっていた。
そして1917年12月、禁酒を定める憲法修正案が議会を通過する。禁酒を望む声だけでは、この一票は足りなかった。それが法になるには、酒税を手放しても国が回るという条件が要った——1919年というタイミングは、そう読むといちばん無理がない。
ウイスキー造りが止まったのは、禁酒法より2年半近く早い
この二つを同時に押したのが戦争である。戦費の調達が所得課税を一気に主役へ押し上げ、同じ戦争が、こんどは原料の側からウイスキーを止めた。
1917年8月10日に成立したレバー食糧燃料統制法は、食料を蒸溜酒の原料に使うことを禁じた。戦時下で穀物を酒に回すのはけしからん、という理屈だ。この一本の法律で、アメリカの飲用ウイスキーの生産は事実上停止する。工業用アルコールの製造は続いたが、飲むための蒸溜は止まった。
戦争は1918年11月に終わる。ところが同じ月に戦時禁酒法が成立した。レバー法による飲用向け蒸溜の禁止は解除されないまま、1919年6月30日をもって販売まで止まる。休戦後に成立した「戦時」の法律が、平時の禁酒法へ橋を架けた形である。造る側から見れば、1917年の夏に止まった蒸溜は一度も再開しなかった。バーボン史家のマイケル・ヴィーチが指摘するとおり、1918年と1919年に蒸溜されたアメリカンウイスキーが見当たらないのは、このためだ。全国の施行日である1920年1月17日より2年5か月前に、新しい樽に印を打つ音は消えていた。
「ある日を境に酒が消えた」という語り方は、少なくとも造り手の側から見ると正確ではない。彼らにとっての終わりは、1917年の夏だった。
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