なぜ化学の専門誌に「ウイスキーに着想を得た」という論文が載ったのか——銅と硫黄で泳ぐ粒子は、エタノールを混ぜた瞬間に止まった
2026年、材料科学の専門誌に「Whisky-Inspired Active Matter」という論文が載った。蒸溜所の銅と硫黄の反応から着想を得て、髪より小さい粒子を毎秒30マイクロメートルで泳がせた研究だ。ただし銅に残ったのは硫化銅ではなく、エタノールを混ぜると粒子は止まった。
2026年、アメリカ化学会(ACS)の材料科学誌『ACS Applied Materials & Interfaces』に、ウイスキー好きなら二度見するタイトルの論文が載った。"Whisky-Inspired Active Matter"——「ウイスキーに着想を得たアクティブマター(自ら動く物質)」。
内容は、人の髪の毛の幅に何個も並ぶほど小さな粒子を、液体のなかで自力で泳がせた、というものだ。着想の元になったのは、スコットランドの蒸溜所で毎日ひっそり起きている、銅と硫黄の反応である。
面白いのは、原論文まで読むと話が二度ひっくり返るところだ。この記事では、(1)蒸溜所側の事実はどこまで確かめられているのか、(2)論文は実際に何をしたのか、(3)「ウイスキーに着想を得た」をどこまで真に受けてよいのか——の順に見ていく。
まず、蒸溜所側の話から
ポットスチルが銅でできている理由のひとつは、銅が硫黄化合物と反応し、煮た野菜やゴムのような匂いを抑えてくれるからだ(→なぜポットスチルは銅でできているのか)。
これを実験で確かめたのが、スコッチウイスキー研究所(SWRI)のバリー・ハリソンらが2011年に『Journal of the Institute of Brewing』へ発表した論文である。実験室規模のスチルを銅製とステンレス製で作り分けると、ステンレスで蒸留したニューメイクは有意に「クリーンでない」と評価され、硫黄様・肉様の香りが強く出た。
ただし細部は、思ったより素直ではない。
既知の硫黄化合物のうち、銅とステンレスで統計的に有意な差が出たのは、ジメチルトリスルフィド(DMTS)ひとつだけだった。DMTSは「腐った野菜」と形容される香りで、20%エタノール中の検知閾値は33ppt(1兆分の33)。ごく微量で香りを左右する。同じ実験では、正体の分かっていない硫黄化合物も三種類、有意に違う量で見つかっている。
銅の置き場所でも効き方が変わった。ステンレス製スチルの一区画だけを銅に替えて比べると、DMTSがいちばん減ったのは初留釜のコンデンサーと、再留釜のポットである。ただし、どの一区画に置いても、全部が銅のスチルの効果は再現できなかった。逆に、全部銅のスチルから再留釜のコンデンサーだけをステンレスに替えると、硫黄様・肉様は全部銅のときより増えている。論文はここに、硫黄化合物を取り除く以外の働きがあると見ている。
そして論文はこう書いている。硫黄化合物が除かれる実際の機構は、まだ解明されていない、と。
論文が実際にやったこと
その「銅と硫化物の反応」に目をつけたのが、グラスゴーのストラスクライド大学に籍を置くカリファ・モハメドとジュリアーヌ・ジムヒェン、そしてドレスデン工科大学のケリー・ヘンツェの3氏である。
つくったのは、直径2〜5マイクロメートルのシリカ球の片面だけに、厚さ10〜50ナノメートルの銅を蒸着した粒子。二つの顔を持つローマ神から、ヤヌス粒子(Cu@SiO₂)と呼ばれる形だ。これをジメチルスルフィド(DMS)の水溶液に入れる。DMSもまた、ウイスキーの新酒に含まれる硫黄化合物のひとつである。
反応が進むのは銅の面だけなので、粒子のまわりに偏りが生まれ、粒子は自分で泳ぎ出す。DMSの濃度が50ミリモル毎リットルに達するまでは濃くするほど速くなり、そこから先は頭打ちになった。最も速いもので毎秒30マイクロメートル。小さい粒子ほど速く、銅の膜は厚いほうがよく動いた。
掲載は同誌18巻18号の26998〜27005ページ。2026年5月に載り、6月に大学が発表して広く伝わった。
一度目——この実験で銅に残ったのは、硫化銅ではなかった
蒸溜所の話では、銅は硫黄を掴んで硫化銅になる、と説明されることが多い。ところがこの実験で起きていたのは、それではなかった。
論文が示した筋道はこうだ。まず金属銅が酸化して銅イオン(Cu²⁺)が溶け出す。そのイオンがDMSの硫黄に配位する。そこへ溶けている酸素が働いて、DMSはDMSO(ジメチルスルホキシド)へと酸化される。一方の銅イオンはCu⁺に還元され、酸素と反応して酸化銅(I)——赤銅鉱(キュープライト)として粒子の上に析出する。
X線回折で反応後の粒子を調べると、現れたのは金属銅と赤銅鉱が混ざったパターンだった。硫化銅ではない。硫黄はDMSOのかたちで液のほうへ去っていく。しかもDMSの濃度を上げすぎると、この酸化銅が反応しにくい膜(不動態層)をつくり、反応そのものが鈍る。
つまりこれは、スチルの中身の再現ではない。銅と硫化物が反応するという性質から着想を得た、別の反応である。論文が "inspired"(着想を得た)と書いているのは、そういう意味だ。
二度目——エタノールを入れると、止まった
もうひとつのひっくり返りは、論文自身が限界として書いている。
少量のエタノールを加えるだけで、粒子の動きはすぐに止まってしまうのだ。コロイドという系の性質による制約だという。ウイスキーに着想を得た仕掛けが、ウイスキーの中身では動かない。
それでもこの研究に価値があるのは、この手の粒子がふつう過酸化水素のような強い燃料を必要とするなかで、身近な硫黄化合物でも動かせると示したからだ。着想の借り方としては、じゅうぶんに正直な部類だと思う。
銅とどれだけ触れさせるか、はいまも設計されている
蒸溜所にとって、銅が反応で減っていくことは更新の手間である。だが同時に、銅とどれだけ触れさせるかは、味を決める設計そのものでもある。
蒸気が銅と触れながら昇る距離が長いほど、酒質は軽く華やかになりやすい。グレンモーレンジィのスチルはスコットランドでも最も背が高い部類で、その軽やかさは、しばしばこの設計と結びつけて語られる(→)。
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